原題の『Whistle While You Work(口笛吹いて働こう)』は、「天職」の本質を言い表しています。自分の人生の大部分の時間を投入するわけだから、そこでの満足度が人生の満足度を左右します。一日の三分の一以上を費やす仕事でハッピーなら、きっとその一生もハッピーでしょう。たかが仕事、されど仕事なのです。どうやって自分の「天職」を探せばいいのか、たくさんの事例やヒントが詰まっています。
訳者あとがき
「天職、かぁ」。来た来た、と待っていた旧友からの手紙を開封するように、私は本書の原書『Whistle While You Work』を開いた。
ディック&デイブのコンビが最初に書いた『人生に必要な荷物 いらない荷物』は、私の最初の翻訳書となったのだけど、あの本の「今自分がもっているもので、本当に幸せなの? いるものだけをもっている? 一度、人生の棚卸しをして、自分にとって本当に大事なものだけをもって、もっと身軽にラクに生きてみない?」という問いかけは、日本での(たぶん)最初の読者である翻訳者(=私)だけではなく、あの本を読んでくれた一〇万人近い人々の胸の中に、今なお響いているのではないか。
先に進むための「人生の棚卸し」の中で、もちろん人間関係や自分の属する場所、究極的な目的は大切だけど、これらはどちらかといえば、何かうまくいかなくなったときに、SOSを出すものだ。空気のようなもので、うまくいっているときには、あまり意識することもない。
それに対して、「仕事」は毎日毎日のことである。人間関係や場所、自分の目的どおりに生きているかも、仕事に左右されることが多い。そして、本書に書いてあるように「一日八時間もやっていられるのは仕事だけ」なのだ。働くのに、ふつう、免許はいらない。誰にでもできる。と同時に、人生の大部分の時間を投入するわけだから、そこでの満足度が人生の満足度を左右する。一日の三分の一以上を費やす仕事でハッピーなら、きっとその一生もハッピーだろうと思う。たかが仕事、されど仕事なのである。
仕事関連の自己啓発書は、書店でも人気コーナーである。多くの人は、「仕事」の成功・不成功を、何で測ろうとしているのだろうか? ひとつは「お金」のようだ。多ければ多いほうがよい。もう一つは「仕事の効率」だろうか。短時間に大量の仕事をこなすことが「優れている」と見なされる。
「お金」と「効率」が、仕事の成功・不成功の基準である時代は、バブルの崩壊とともに終わった、と私は思っている。お金に牛耳られた市場経済の中で、ひたすら効率を追い求めて来た結果が、大量生産・大量消費・大量廃棄による地球環境の破壊ではないか。「お金至上主義」「効率至上主義」が、人類の生存の基盤であるこの惑星をボロボロにしているではないか。
「大きいことはいいことだ」「速ければ速いほどいい」という旧価値観に代わって、「スモール・イズ・ビューティフル」や「スロー・イズ・ビューティフル」が共感を呼ぶ時代である。「仕事での、スモール、スローって、どういうことかなぁ?」と思うと、それは仕事をちょっとしかやらないとか、ノロイということではなくて、「仕事を自分の手に取り戻すこと」なのだろうと思う。自分の外にある基準に引きずられるのではなく、ゆっくりであっても、自分で本当に納得しているかどうかを確認しながら働くこと。スロー・フードならぬ、「スロー・ワーク」である。本書には、魅力的な人物がたくさん登場するが、彼らの共通点は「仕事を自分の手に取り戻したこと」だろう。
私のまわりにも、そういう人々がいる。自分がやっていることが自分の「腑に落ちて」いるのだ。そういう人は、どっしりとかまえていて、表面的な変動に翻弄されることもない。名刺から、社名や肩書きを消し去っても、同じように生きていきたい、生きていけると思っている。自分の前に道があってもなくても、自分が「これだ」と思うことをひたすらやる。その結果、振り返れば、道ができているかもしれない。でも道をつくるためにやっているわけじゃない。自分の評価は自分で下す。
私はこの「腑に落ちる」ことが鍵だと思っている。仕事の成功・不成功の基準は、「腑に落ち度」だと。たぶん、ディックたちもそう思っているはずだ。自分にとって、落ちる「腑」はなんなのだろうか? なんだったら落ちるのだろうか? その自分の内面奥深くへの探究が、ディックのいう「インベンチャー」なのだろう。外に冒険に出るアドベンチャーに対して、「イン(内側へ)」である)。
本書では、
天職=才能×情熱×価値観
と整理して、それぞれの角度から、「本当に腑に落ちる仕事人生」に迫っている。「天職」とは、ちょっといかめしい言葉だけど、私のシンプル方程式で、
天職=自分の「得意」×「好き」×「大事なこと」
だと思っていた。ディックたちの考え方とどんぴしゃなのでうれしくなった。
『朝2時起きで、なんでもできる!』という本にも書いたが、私自身、英語の通訳・翻訳だけをやっていたころ、英語も日本語も「好き」だし、わりと「得意」みたいで、楽しく仕事をしていた。でもその楽しさは、陽炎のようにゆらゆらと揺れたり、その場から離れると薄れたりするものだった。それが、環境問題に取り組むようになって、自分にとって「大事なこと」に、自分のスキルを活かせるようになり、「ああ、これで全部そろった!」と思えるようになった。
私は、「新しいことを知ること」「人とやりとりすること」そして「日本語」が「好き」である(日本語が好きだから通訳者になった、というチョット珍しいたぐいである)。そして、どうも「書くこと」「話すこと」「相手にわかりやすく伝えること」が「得意」らしい(自分では別にそう思っていないのだが、まわりの人々はそう言ってくれる)。そして、「自分のたづなは自分で握ること」は譲れないと思っていて、地球環境の悪化になんとか歯止めをかけることが、何よりもやるべき「大事なこと」だと思っている。
「天職」だなんておおげさでいえないけれども、これらを掛け合わせれば、今自分がやっている「環境と英語の交差点で、伝え、つなぐために働く」ことは、なんて自分にぴったりなのだろう、と思う。「自分は自分のやりたいことをやって、生計も立てられている。なんて恵まれているのだろう!」ありがたいことである。
私はディックともデイブとも、本の中だけのおつきあいだ(ディックの通訳をしたことはあるけど)。訳しながら、彼らの変遷と並行して、自分の変遷も確認することになった。一冊めを訳したときは、自分はこうだったけど、こうやって振り返ってみると、ここまで来たんだなぁ、と。太平洋をはさんでいるけれど、これからもきっと、並行して(そして、今回のようにときどき交差して)生きていくんだろうなぁ、お互いにどんなふうに変わっていくかなぁ、と楽しみに思う。
今度ディックに会ったら、「本務」という仏教の言葉を教えてあげようと思う。日常語では“義務”というニュアンスの「本務」という言葉には、「本分であるつとめ」という意味がある。そして、「本分」とは広辞苑によると、「人やものに本来そなわっているもの。本来の性質」だ。「自分に本来そなわっているつとめ」を西洋では、神に呼ばれるという「コーリング」(天職)というのだろう。
どうやって、自分の本務を見出し、全うするのか――東洋では仏陀の時代から、西洋では神話の時代から、人間にとっての課題だったのだろうと思う。それほどまでに、人間にとって本質的、根源的なことなのだ。
それを意識していても、していなくても、毎日、時間は流れていく。一生を終え、「いい人生だった」とつぶやいて死ねるときが、最高に幸福な瞬間だと思う。「果たして、今のままで、自分はそう、つぶやけるだろうか?」と自問してみるとき、今自分がやっていることの「腑に落ち度」が恐ろしいほどわかる。
気づくのに「遅すぎる」ということはない。何かを始める、何かを変えるのに「手遅れだ」ということはない。今何歳でも、人生のどの段階にいようと、「あれ? このままでいいのかな?」という自分の内から聞こえてくる声に従ってみるのか、それともフタをするのか。それだけの話であり、選ぶのは自分自身である。
いつかの日か、ディックに、アフリカのインベンチャーの旅に連れていってもらえる日が来るだろうか、と楽しみにしている。
枝廣淳子