温暖化懐疑論者と言われる武田先生、国環研の科学者の江守さんとの鼎談本です。「温暖化は起こっている」という「事実」は3人の共通認識でした。それにも関わらず、温暖化の「脅威論」や「懐疑論」が起きているのは、政治や経済、マスコミ、個人の「意見」が複雑に絡み合っているからです。「事実」と「意見」を区別して、温暖化問題をどう理解し、どう考えていったらよいのでしょうか? そのためのヒントや気づきがここにあります。
まえがき(1)─鼎談にあたって
武田邦彦
1990年まで環境破壊は現実に被害者のでる「リアルな環境破壊」であった。
しかし、1990年以後の日本で関心を呼んだ環境問題は、「予想される環境破壊」であり、一部は「従来は労災とされていた環境破壊」であった。「予想される環境破壊」とは、次のものである(括弧内は予想、……の後は結果)。
(1)リサイクル(廃棄物貯蔵所が満杯になる。大量生産大量消費社会からの決別……無関係だった)
(2)ダイオキシン(焼却の時に猛毒のガスがでて、人類が破滅の危機に瀕する……健康障害は起こらない)
(3)オゾン層(フルオロカーボン化合物などによって成層圏のオゾン層が破壊され、生物は絶滅の危機に瀕する……まだ不詳)
(4)環境ホルモン(人工的に合成された物質が原因して、性ホルモンなどの内分泌系に異常が生じ、オスがメスになるなどの異変が起こる。……最初から誤り)
(5)地球温暖化(CO2などの温室効果ガスによって大気の気温が上昇し、海水面が上がる……本著で明らかになる)
また、1992年のリオデジャネイロの環境サミットで、「予防原則」と呼ばれる原則15 が採択された。これは「リアルな環境破壊が起きていなくても、また科学的合理的な根拠がなくても、アドホックに予備的な環境規制ができる」という原則である。
科学的合理的な根拠があれば、アドホックに予備的な環境規制をしなくても、本格的な対策がとれるので、この予防原則はそれ自体で論理的な整合性をもった原則であった。
ところが、1970年代から1990年に至る、主として工業での環境技術の向上によって、日本の環境が著しく改善され、環境破壊による犠牲者が出なくなったこと、リオデジャネイロで採択された予防原則が誤って理解されたことから、日本の環境問題はあらぬ方向へと進んでいった。
すなわち、一部の科学者が科学的合理性を持たない根拠に基づいて社会に「予想される環境破壊」を発信し、それにもとづいて科学的訓練を受けていない人が「科学的合理的根拠を有する環境破壊」と書き直し、社会に流布することが行われた。「物質をリサイクルすることによってゴミを減らし、資源を節約する」という考え方は、19 世紀以来、自然科学がその主要な根拠としてきた熱力学第2 法則に著しく反し、また資源工学という応用分野からも否定されるものだった。「ダイオキシンは人類が創造した史上最強の毒物」というコピーは、「人類が創造した」、「史上最強の毒物」 ということはまったく科学的な根拠を持たなかったし、ダイオキシン報道がされた1996年にはまだダイオキシンの人間に対する毒性結果は出ていなかった。さらに環境ホルモンでは「多数の事例から、ある仮定に適合する例を探せば
それをピックアップすることはできる場合でも、それをもってその仮定が正しいことにはならない」という自然科学では初歩的段階で習う概念に反していた。
すなわち、温暖化を解明するうえで問題は2つある。
第1 には「リアルな環境破壊」ではないときに「予防原則」を適応する場合のルールの問題である。
第2 には、「科学が予想する環境破壊」において、予想に関する能力の問題である。
予防原則のルールは、
(1)科学的合理的理由がなく予備的に規制する。
(2)科学的合理的理由がないことを繰り返し広報する。
(3)直ちに科学的研究を行う。
(4)科学的合理的結果がでたら直ちに予備的規制を見直す。
ということでおそらく多くの人の合意を得られるだろう。
第2点の科学に関する将来予測能力については、本著の主たる議題になると考えられ、それには地球温暖化はもっとも適した対象であろう。
これまでの学問の知見では、科学の将来予見性について次の特質が示されている。
(1)ニュートンの肩の上に乗ること
(2)ミネルヴァのフクロウは夕暮れにしか飛ばないこと(ヘーゲル)
(3)学は自ら時代遅れになることを望むこと(マックス・ウェーバー)
すなわち、学問はニュートン(既存の学問体系)の肩の上に乗る(既存の学問を基礎とする)ことなくして肩の上からみる(将来を予見する)ことができないことが第1である。このことは、これまでの学問的知見と反することは吟味が必要となることを示している。
また、人間の知恵(フクロウ)は、未来を予見することができず(朝方は飛ぶことができず)、過去を解説するだけだ(夕暮れ)という特性をもつ。
したがって、学問の進歩は、これまでの自分を否定する(自ら時代遅れになる)活動(を望むの)であり、ニュートンの肩の上に乗りながら、時代遅れになることを望むのが学問の特性である。
したがって、学問は将来を予見することが嫌いであるが、この学問の性質が30年もしくは100年後の気温を予測できるかというところに地球温暖化のおもしろさがある。
なお、科学的合理的な思考では、事実→解析→意見→感情と進むのであり、「人間は現在のように大量に物質を消費する社会は好ましくない」という感情からスタートし、それに合致する事例をピックアップすることは忌避される。また、著者は「 持続性社会」とは「節約」ではなく、人類の歴史が教えてくれる通り「イノベーション」であり、持続性社会の構築とは「イノベーションがもたらされる社会」であるという概念は、他の著者と若干、異なる可能性もある。
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まえがき(2)─鼎談にあたって
江守正多
まず、本書では、ご一緒させて頂くお二人のことを「武田さん」、「枝廣さん」と敬意を込めてお呼びしたいと思います。というのは、僕が大学生のときに、ある教官が「ひとを『先生よばわり』するのは、うやうやしく持ち上げて実は少しばかにしているときだ」といっていたのを覚えているからです。以来、僕はできるだけひとを先生よばわりしないように気をつけています。
それはともかく、この本の企画に参加するにあたり、武田さんの近著『環境問題はなぜウソがまかり通るのか3』を読みました。いろいろと考えさせられましたが、結果的に、本書の議論で掘り下げてみたいテーマが自分の中で2つ浮かんできました。
1つめは、人々は何を基準に誰のいうことを信じたらよいのか、その判断が非常に難しくなっているということです。
テレビや新聞などのメディアの発するメッセージが、ひどく単純化されていたり、偏っていたり、十分な事実確認に基づいていなかったりすることがあるのは、おそらく武田さんが指摘されているとおりだと思います。人々がメディアのメッセージを鵜呑みにすることには危険が伴います。 一方で、同じことが、武田さんのお書きになったものにも当てはまるように思います。単純化されていたり、偏っていたり、十分な事実確認に基づいていなかったりしています。このことは武田さんご自身もよくおわかりになっているのではないでしょうか。
もっとも、僕はたまたま温暖化科学の専門家なので、武田さんの著書を読んで、温暖化の部分に関してはどこがおかしいのかわかりましたが、リサイクルなど自分の専門外の部分に関しては、正直にいって、おかしいのかどうなのかすぐにはわかりませんでした。
環境問題の専門家と一応呼ばれる僕でさえそうなのですから、ましてや一般の人々は、もっともらしく書いてあるものを読めばとりあえず信じてしまう、もしくは逆に、何も信じられなくなってしまう、という状況が生じていることに全く不思議はありません。
テレビや新聞のメッセージを鵜呑みにする人がいる。誰かがそれを批判すると、今度は「テレビや新聞がいうことはウソだ」というメッセージを鵜呑みにする人がいる。このような状況は、社会での合理的な意思決定に悪影響を及ぼしていると思います。この状況をどうご覧になるか、また、状況を改善するために、専門家がとるべき態度、市民がとるべき態度はどういうものか、武田さんと枝廣さんにぜひご意見を伺ってみたいと思っています。
2つめは、温暖化の影響は実際のところどれほど深刻なのか、という問題です。
武田さんが指摘されているように、メディアにおいては往々にして温暖化による破局的な悪影響の可能性が強調されます。これは科学的に見てバランスのよい伝え方ではないと僕も思います。だからといって、武田さんがおっしゃるように温暖化の影響は良いことの方が多いというのも、逆方向の極端にいってしまっており、科学的ではないと思います。
温暖化の影響の全体像をどれほど深刻なものとしてとらえるか、これは僕たち専門家にとっても非常に難しい問題だと認識しています。
そう認識した上でいいますが、武田さんはこの問題において、温暖化の影響を「日本国内」かつ「30年以内の将来」に限定するという独特の論法を用いることによって、温暖化の悪影響を小さく見せようとしており、この点に対して僕は大きな声で異議を唱えざるをえません。
何を心配するかは人それぞれですので、武田さんが他国の影響や30年より先の影響を心配しないのは武田さんの自由かもしれません。したがってここでは、僕は武田さんに対抗して「他国の影響や30 年より先の影響を心配した方がよい」ことを合理的に主張し、読者が武田さんの主張に比べて僕の主張の方に強い説得力を感じてくれるのを目標にして議論することになるでしょう。30年よりも先のことを心配するかどうかは、30年より先のことを科学的に予測することの意義にかかわっています。武田さんはこの意義を否定しますが、これはまさに僕自身の研究の専門分野ですので、しっかりと説明させて頂きたいと思います。
科学的な予測の信頼性という問題は議論してもなかなか決着がつかないかもしれませんが、それ以前に、武田さんの主張には、この問題における本質的に重要な観点が一つ抜け落ちている気がします。そのことは本書の中でおいおい指摘していくつもりです。
最後に、「科学」そのものについてひとことだけ述べておきます。科学は社会に対して価値中立な情報を提供できますが、社会をどうすべきかといった判断は社会の構成員の価値観に依存するため、科学だけでは当然決まりません。科学者が社会に対して発言する場合、それが価値中立な情報の提供なのか、科学者本人の価値観が入った個人的意見なのかを、できるだけ明確に区別する必要があると思います。
では、これから始まる武田さんと枝廣さんとのスリリングな議論を存分に楽しみたいと思います。読者のみなさんも存分にお楽しみください。
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まえがき(3)─鼎談にあたって
枝廣淳子
全国のあちこちで地球温暖化に関する講演をしていて、終了後に必ずといってよいほど、会場から悩みの質問が出ます(最近、特に増えてきました)。
「私も温暖化について解決すべき問題だと思って、自分でもいろいろやっているし、まわりの人にも伝えていきたいと思っている。でも、『温暖化は起こっていない』という大学の先生の言葉を持ち出して『何もやる必要はないんでしょ』と言われてしまう。どう考えたらよいのでしょう?」
私自身も、一般の市民だけではなく、企業の経営者からも、鞄や机の中から取り出した武田邦彦先生の本を手に「温暖化なんか起こっていない」「温暖化対策は無意味である、したがってやる必要はない」と反駁されることもあります。
科学者など温暖化の専門家は、温暖化懐疑論者の話になるとだいたいは苦笑いをして、「科学的には懐疑論はもう終わっています」「日本ぐらいですよ、懐疑論が残っているのは」と言います。しかし、一般の人たちの間で、特に温暖化を何とか止めようと懸命にできることをやっている人たちにとって、懐疑論は「終わって」いません。「大学教授」「研究者」としてデータを挙げながら「温暖化は起こっていない」「何もしなくてもよい」「日本は温暖化したほうがよいのだ」と言われると、科学者でも研究者でもない私たちは、反論するすべもなく、途方にくれてしまうのです。
「私たちがやってきたことは無意味なことだったのだろうか?」「本当に何もしなくてもよいのだろうか?」「誰が正しいのだろう?」―途方にくれ、無力感に打ち砕かれ、温暖化への取り組みを止めてしまった人たちがたくさんいます。こういった懐疑論に対して、自分の中でも対外的にもどのように対処したらよいのでしょうか?
昨今の日本のように、政府も多くの企業や市民も「エコ、エコ」「温暖化、温暖化」と言うようになると(しかも押しつけがましさを感じたりすると)、反発する気持ちが出てくる人も多いと思います。しかし、「押しつけへの反発」から温暖化そのものを否定するのではなく、やはり自分の頭で考えて判断することが大事です。
2008年秋に四日市市で、武田邦彦先生とパネルディスカッションでご一緒する機会がありました。武田先生は、「科学としての温暖化」を語るというより、政府や役人、NHKや既得権益への批判を繰り広げ、自らを少数派で予算ももらえない弱者の立場にあると位置づけることで、感情や誰の中にもある「お上に反発する」気持ちを味方につけているなあ、と思いました。 武田先生は「一人ひとりが自分で考えることが大事だ」ということを強調しておられ、この重要性は私も共有しています。しかし、そのための手段として温暖化を否定するのは、「だったら何もしなくてよい」とかえって思考停止に陥る人を生み出しており、一人ひとりが考えるという目的に役立っていないのではないか、弊害が多すぎるのではないか……。
「武田先生の本を示して『温暖化は起こっていないと言っていますから、何もやらなくていい』という発言をよく聞きますが、そこで思考停止することを求めて書かれたのではないでしょう。武田先生が本当に求めているのは何なのでしょうか? 何を望んでこのような挑発的な、皆に議論を巻き起こすような言動をされているのでしょうか?」と尋ねましたが、答えをいただくことはできませんでした。
温暖化は、科学に基づいた政治的な判断が必要とされる問題です。ヨーロッパの政治家はよく「2℃以内に抑えるためには○○ppmにしないといけない。そのためにわが国はこうする」と、科学をベースとして発言します(日本では「産業界が」「あそこがこう言うから」「アメリカがこうするから」と、対人関係ベースの政治なのは残念なことです)。
そして、私たち市民も科学とはどういうものなのか、どのように科学と付き合っていくべきなのかを知り、科学を味方につける方法を身につけていかなくてはなりません。科学の世界では100パーセント確実だと言い切れませんから、「誰が正しいか」の審判を下すことよりも、それぞれのリスクを考えて自分の意見や行動を決めていくことが重要だと思っています。
日本でも科学者と市民との距離感を少しでも縮めようと、「サイエンスカフェ」などの取り組みも広がりつつありますが、私たち一人ひとりがどのように科学と向き合えばよいのかをしっかりと考えていかないと、武田先生に限らず、温暖化に限らず、いくつかの異なる意見がある状況に対応できずに混乱してしまうことでしょう。
四日市でのパネルディスカッションの発言内容を、武田先生の了解を得て、内外の環境情報を提供するために個人的に発行している環境メールニュースに掲載したところ、技術評論社の編集者の伊東さんから「しっかり議論して本にしてみませんか?」と提案をいただきました。私も議論がかみ合わない消化不良を抱えたままだったので、私は市民の立場で、また温暖化の科学者である江守正多さんにも参加いただき、今回の鼎談の運びとなりました。
この機会にきちんと、武田先生が何を目的に、マスコミまで巻き込んでの目立つ懐疑論を展開しているのかを伺いつつ、武田先生は何に対して懐疑的なのか、その論拠は何なのか、科学の世界ではどのようなデータがあり、どのように考えられているのかを一つずつ確かめていきたいと思っています。
そして、その作業を通じて、私たち一人ひとりが、科学とはどういうものなのか、どのように付き合っていくべきものなのかを考えていきたい―それこそが「一人ひとりが自分で考える市民」につながっていくと信じています。