世界で100万人以上に読まれ、20世紀の経営を変えた戦略書の一つとして評価されるピーター・センゲの『The Fifth Discipline』の2006年刊の増補改訂版です。企業、学校、地域コミュニティ、社会課題やそれを乗り越える、さまざまな実践事例や新たな洞察が書き加えられました。実践からの振り返りと組織の未来への考察などは、企業や地域などで「変化を創り出す」ことをめざしている方々に、ぜひ読んでいただきたい書です。
日本語版 訳者まえがき
今ほど「学習する組織」が強く求められる時代はないであろう。学習する組織とは、目
的を達成する能力を効果的に伸ばし続ける組織であり、その目的は皆が望む未来の創造である。学習する組織には唯一完全の姿があるわけではない。むしろ、変化の激しい環境下で、さまざまな衝撃に耐え、復元するしなやかさ(レジリアンス)をもつとともに、環境変化に適応し、学習し、自らをデザインして進化し続ける組織である。
二〇〇八年の金融危機、その後顕在化した多くの国家の財政危機、資源問題や食料問題、気候変動などでグローバル経済が揺れ動く中、二〇一一年三月に日本を襲った大震災と津波は、被災地だけでなく、国内外の広範な地域で生産活動や生活に多大な影響を与えている。私たちは、網の目のように紡がれたつながりの中で経済活動を行い、社会を構成し、日々暮らしていることを平時には忘れがちだ。しかし、なくなって初めて気づく前提が数多くある。そういった前提によって紡がれた網の目は、ますます複雑化し、一部で起こった衝撃がここかしこに想定もしなかったような影響を与える。私たちはかつてないほどの「相互依存」の時代を生きているのだ。
そのような複雑で変化の激しい時代には、多様な関係者が真の対話を重ね、複雑な現
実を見つめ未来のビジョンを共有することで、自ら創造し、再生し続ける組織が必要だ。
学習する組織はまさに二一世紀に求められる組織像であり、ピーター・センゲ氏(英語での発音は、「センギ」のほうが近い)の先駆的な仕事は、そうした未来の組織課題や社会課題に対応するための新しい組織像を、二〇年以上前から示していたのである。
一九九〇年に本書旧版の原書が出版され、二〇〇五年に出された改訂版では、「学習す
る組織」の実践上の課題やそれを乗り越える数多くの事例が書き加えられた。実践からの振り返りと組織の未来への考察は、実際に組織をマネジメントする実践家への道標を提供するであろう。加えて、旧版の翻訳書『最強組織の法則』(徳間書店、一九九五年)では原書の内容が部分的に割愛されていたが、本書は改訂された原書をすべて翻訳した完全版であり、より原書に近い形でセンゲ氏の提言を読んでいただけることを期待する。
組織づくりの課題は今の日本には時宜にかなったものだ。訳者らは日本の企業、行政な
どの組織で、研修や組織開発を支援する機会を数多くいただいているが、本書にある他責思考や縦割り意識、当事者意識の欠如などのさまざまな学習障害は、程度の違いこそあれほとんどの組織に見受けられる。根幹にある単純な線形思考、真の対話の不足、奉仕精神や謙虚さの欠如は、一部の欧米のマネジャーやコンサルタントだけの課題ではなく、日本の組織にとっても大きな課題なのだ。
とりわけ、なぜ理念を掲げながら、組織の多くの行動や現実が理念から離れているの
かに目を向けなければならない。これは簡単な課題ではなく、一朝一夕には解決しない。
「学習する組織」づくりは長い年月に及ぶ実践の積み重ねが必要であり、しばしば職業人生をかけることとなる。
本書は、理想とする組織像を理念として掲げるのみに終わるのではなく、実践に必要な
理論、具体的なツールと手法、そして実践を支えるための組織インフラの改革について提示している。それぞれの組織は、事業を行うための独特の知識を持つが、今までの日本の組織では「背中を見せる」「あうん」で教える暗黙知として伝承されるものが多かった。
学習する組織のツールや手法は、暗黙知として伝えられてきた職業人の知恵と技を、わかりやすく見えるように形式知化して、伝承や改善を容易にすると同時に、その暗黙知に潜む本質を失わないことの大切さを伝える。
「学習する組織」の典型的なプログラムを実施する場合、通常一〇〜三〇人のチームごとに、理論やツールを二〜三日の研修で導入し、そのチームで数カ月間にわたって「深い学習サイクル」による組織学習の練習を繰り返す。その練習を通じて、理論の本当に意味することについて「我がこと」として気づき、必要となる知恵と技を身につけていくのだ。
このチーム単位の活動を全社的に広げるには、会社の規模や複雑さによって、二〜三年からさらに長い期間を要する場合もあるだろう。
安定成長の時代には、効率改善や標準化が常套手段である。しかし、複雑に激しく変化
する時代には、しなやかさ(レジリアンス)や多様性を強化することで、長期的な効率の最適化を図る。そのために、安定成長の時代に私たちの思考や行動の前提として染みついたメンタル・モデルを浮かび上がらせ、それがこれからの環境や課題状況に合ったものかを組織として精査するために、物事を多面的に見て、多様性を創造につなげる対話が欠かせないのだ。
幸い、日本においても近年、対話の慣行や文化が再び根付き始めている。皆が「何か
おかしい」「このままではいけない」と声を挙げ、互いの考えに耳を傾け始めているのだ。
センゲ氏の提示する「チームの中核的な学習能力の三本柱」は、こういった動きをさらに有益なものにするための示唆を与えてくれる。ただ話し合うばかりでは、皆が望む結果を出せる組織はつくれない。どんな未来をつくりたいのかの具体的なビジョンを共有し、一人ひとりがそのビジョンを自分事として創造的に取り組まなければ前進できない。共有ビジョンを描けたとしても、物理的な制約や利害関係のもつれなど、複雑な現実の構造を適切に見極めることができなければ、容易にシステムの罠に陥り、現実を効果的に変えることはできない。「内省的な対話の展開」「志の育成」「複雑性の理解」の能力と実践を、バランスよく伸ばす必要があるのだ。
学習する組織のツールは、楽器のようなものだ。数時間から数日間使っていれば音色は
出せるようになるが、上手に曲を奏でるにはもっと練習が必要だ。一人で上手に演奏できても効果は限定的で、めざすのは、組織として合奏(アンサンブル)ができることだ。とくに変化の激しい環境下においては、ジャズ・プレイヤーがその場や他の演奏者の状況を見ながら適応する「即興」が協働の質を左右するだろう。
そしてツールの習得よりも重要なのは、そういった合奏(アンサンブル)や即興に参加する一人ひとりの意識の変容にある。知識やツール、それらを使いこなすスキルは、能力のごく表面的な部分にすぎない。大事なのは、根底にあるそれぞれの人の基本姿勢、そして、「あり方(being)」だ。この職業人としてのあり方の変容が十分に多くの人たちの間ではじまったときに、組織の潜在可能性は大きく開放される。このあり方の変容を意図的に起こそうとするならば、経験上最も確かな方法の一つは、組織学習の理論とツールを習得し、その実践を組織として繰り返すことなのだ。
「組織開発のバイブル」とも位置づけられる本書は、経営者はもちろんのこと、現場リーダーからネットワーク型リーダーまでさまざまなリーダーに役立つだろう。そして、学習する組織では職位に関係なくすべての人がそのとき、その場でリーダーとなり得るのである。今の組織や社会に対して「このままではいけない」「もっとよくしたい」と感じるすべての人に、その思いを実際に変化につなげ、未来を創造する力―真のリーダーシップを高めるきっかけとなることを願っている。
この訳書には、多くの方の支援があった。著者のピーター・センゲ氏とシステム思考の
恩師であるデニス・メドウズ氏に厚くお礼を述べたい。そして、オットー・シャーマー氏、アダム・カヘン氏ら数多くの卓越した実践家たちとの出会いのきっかけとなった組織学習協会(SoL)、日本での実践についていっしょに振り返ってくれたSoLジャパンと組織開発コミュニティの仲間たち、組織開発の実践機会をくださったクライアント企業の皆さまのおかげで、本書の意味をより掘り下げ、現実の課題に引きつけて理解することができた。また、英治出版の原田英治氏、同編集担当の高野達成氏に翻訳出版の機会をいただき、小野寺春香氏、東出顕子氏に翻訳協力をいただいた。そのほかにもさまざまな方のおかげで、本書の日本語版を出すことができることに対して、感謝の念でいっぱいである。
多くの想いを紡いでお届けする本書が、この日本において、人の成長、組織の発展と、
地域や国の再生に少しでも役立つことができたならば幸甚である。
2011年5月
枝廣淳子・小田理一郎・中小路佳代子(㈲チェンジ・エージェント)