牡蠣(カキ)って、1日に200リットルもの海水を通過させるんだって。通過させながら、水中のプランクトンを体の中の「ふるい」で濾して、それをエサにしているそう。
あの小さなからだで1日に200リットルも通過させるなんて、すごいなー、と思っていたのだけど、この2日間は、そんな牡蠣になった気分だった。
下訳者が訳し、チェッカーがチェック・練り上げをしてくれた訳文を、次から次へと「通過させていく」。ふるいの網の上に残る、プランクトンならぬ、「誤訳」や「わかりにくいところ」や「ぎこちないところ」を、ふるいに通るまで何度でも、ほぐし、ほどき、練り直す。この作業を朝から晩まで、12時間ぐらい続けていた。
邪念が入ると、通過のスピードが遅くなり、ふるいが揺れてしまうので、「無」の心境である。きっと牡蠣も、没我の心境なんじゃないかなあ、と共感を覚える。
海オフィ自主合宿の1日目に、翻訳の方は、予定を超えてやるべきところまで終えることができた(通常は、予定どおりだとやるべきところまではいかないので、画期的! おそるべし、無の心境!である。^^;)
2日目は、著書の仕上げにかかる。最初からすべての章を読みながら、修正を入れ、また読む。これまた牡蠣である。
帰りの電車の中でも作業を続けて、今朝も作業を続けて、何とか、翻訳も著書も、ほぼ仕上げることができた。ほっとする。作業をしてくれたみなさんに感謝!である。
海オフィで、時折PCのスクリーンから目をはずして、打ち寄せる波と、波に乗ろうとこぎ出しているサーファーに目をやり、さらに遠くに白い蝶々みたいに海面にとまっているいくつものヨットをみたとき、不思議な感じがした。あっちのヨットから、この小さな部屋にいる自分を見ている自分がいる、みたいな。
同時通訳をやっていた頃も、とても調子のよいときには、一生懸命同時通訳をやっている自分を見ている自分がいる、という感覚を持ったことがあった。こういう感覚って、イチロー選手やスケートの清水選手なども感じるらしいのだけど、世阿弥のいう「離見の見」というのかな、自分が澄み切った湖の湖面になったような感じなのだ。
「いつか、本当にヨットに乗って、海から海オフィを見てみたいな」なーんて、世俗的なことを考えたとたん、湖面に波が立って、その不思議な感覚も消えてしまったのだけどね。(^^;