昨日も1日、部屋の片づけをしていた。自分の部屋ではなくて、かつてイーズの前身「えだひろば」が社長1人、スタッフ1人の小さな産声をあげ、JFSをスタッフ1人で立ち上げた頃使っていた小さな事務所の片づけである。
いろいろと懐かしいものが出てきた。通訳者だった私が、最初にパネリストとして登壇し、人生のひとつの転機になった富山での環境シンポジウムのプログラム。1999年のことである。ということは、今年が10周年になるのね〜。
最初の頃の講演のための、びっちりと書き込んだメモ(当時はパワーポイントを映写する技術はなくて、1枚ずつ透明なシートに打ち出したものをプロジェクタに載せながら説明していた)。『ライオンボーイ』の校正紙。第6回まで開催した「エコ・ネットワーキングの会」のプログラムや会計報告書。太陽光発電がまだ技術開発の段階だった頃の、小さな実験キット。「ビジネスウーマン・オブ・ザ・イヤー」の受賞を祝っていただいた思いがけない祝電。そして、通訳になるために勉強していた頃の自分用のノート。これがすべての出発点だったのだなぁ。
部屋の片づけとは、人生の片づけでもある。なんて思いながら、残す物、処分する物を分けていく。
先日、オフィスのマンスリーミーティングで、スタッフのイイジマサンが「オフィスのファイリングシステムについて」説明と提案をしてくれたのだが、それがとても役に立つ。オフィスのファイルをどう整理し、共有化するかという話を聞きながら、「自分の家でも書斎でも、これを使えばいいんじゃん」と勉強になったのである。そして、何度も書類の整理やファイリングに失敗してきた経験から、「どうやれば途中で止まってしまうか」もわかっているので、今度こそは!と思いつつ、しくみを作っているところである。
私は第1回の講演から、今日に至るまで(通算、何回ぐらい講演してきたのだろう?)ずっと、講演後のアンケートをお願いしている。通訳時代に、自分のパフォーマンスへのフィードバックが大事だと痛感し、当時は自分の通訳を必ず録音して聞き返していた。でも、講演では通訳と違って「デリバリー」の出来不出来より、「何がどれだけ届いたか」が重要であって、それは聞いてくれた方に教えてもらうしかわからないからである。
膨大なアンケートの山を見ながら、ふと気づいたことがある。ここ数年、講演後のアンケートによく「声がいい」と、声を褒める言葉があるのだけど、講演を始めて最初の頃は、そういう記述はひとつもなかった、ということだ。
「声がよい」と書いてくれる人がけっこういて、直接そう言ってくれる人もよくいて、あ、そうなのかな、そうだったらうれしいなと思うものの、私の声は別に美声ではなくて、声が通るわけでもない。どちらかというと、声は通らないので、居酒屋のようににぎやかなところでは一生懸命しゃべっても相手に届かないことが多いぐらいだ(だから、できるだけ静かなお店を選ぶようにしている)。
「声」というと、大学・大学院時代の二つの思い出が鮮明によみがえってくる。カウンセリングを勉強していた頃だ。
ひとつは、私がM1の頃、D2かD3だった女性の先輩が言われた「私は小さな声でも、ちゃんと目の前の相手に届く声でしゃべりたいと思っている」という言葉。そのときの先輩の真剣な表情も覚えている。
カウンセラーは通常、一生かけても数十人かせいぜい百人超の来談者としか仕事ができない。一対一で、じっくり時間をかけ、時には数年から数十年もつきあっていくプロセスだからだ。
それに対して、私はある時点で「もっと多くの人に伝える」役割を選んだ。
目の前のたった一人に対してさえ、「ちゃんと届くよう話す」ことがどんなに大変かを、カウンセリングの実践で悩み、試行錯誤していた中で、身をもって実感し、そして先輩の言葉に釘をさされたという背景があるものだから、私にとってはつねに「今の声はちゃんと相手に届いている? どこまで届いている?」ということがひとつの物差しになっているようなのだ。自分の声に対しても、人の声に対しても。
もうひとつの思い出。これは大学3年か4年の時だったかな。教育心理学課程で、臨床心理学(カウンセリング)を勉強していた。よく夏休みとか春休みには、カウンセリングを勉強・実践している人たちの合宿があった。合宿といっても、いわゆる勉強ではなくて、朝から夜まで、グループで話をすることで、ひたすら自分を見つめる、という合宿である。
何があってもいつでも、「いま・ここ100%」という私のあり方は、この頃にその根っこが築かれたのだと思うし、カウンセリングを勉強し、こういう合宿に出る中で、少しずつ「自分」を発見していく私に、当時つきあっていた人が「変わっていくのがこわい。合宿には行くな」と言い出して、イプセンの「人形の家」みたいな展開になった(つまり、その関係性から私が出て行った)のも、その頃のことである。あれは、第一次青春期のことだった(ちなみに、現在の私は第七次青春期である)。
で、それはどうでもよいのだけど、あるとき、大学主催で、大学の寮がある伊豆の戸田で合宿があった。そのとき、来ていらした越智先生に、「君の声は、張りぼてみたいだね。骨格はあるけど、肉がついていない」と言われたのだ。カウンセリングの大御所にそう言われて、私は一瞬凍った。批判されているように思えた上、自分に変えようがないものを非難されているように感じ、どうしてよいかわからなくなったからだ。
越智先生は、そんな私のようすに気づいたのか気づかないのかわからない調子で(たぶん気づいていたはずだけど)、「これからが楽しみだね」とおっしゃったのだった。これからいろいろな経験をして、肉付けをしていくことになる、どういう声になっていくのか、楽しみだね、と。
以来、私は自分の声に小さなコンプレックスを持つことになった。張りぼての声。中身のない枠だけの声。
コンプレックスというのは、つねに意識している、ということだ。自分の声をつねに自分でモニターするようになったのだった(したって張りぼてか中身があるのかなんてわからないのだけど)。そして、人の声にも、同様に敏感になったのだった(いまでもそうである。張りぼての声と中身の詰まった声をどこかで聞き分けている。他人のことのほうが見えやすいのと同様、聞き分けやすいのである)。
私の今の声が、当時と変わっているのか、どう違うか、自分ではわからない。講演を始めて10年の間にもきっと変わってきているのだろう。越智先生がいまの私の声を聞いたら、なんておっしゃるだろう。聞いてみたい気がする。「ちょっとは肉付けができてきたかな。これからだね、本番は」なんて言われそうな気がする。
越智先生はビールがお好きだったようで、晩年は「ビールを飲んでいれば必要なカロリーは採れる」と朝昼晩とビールだけを召し上がっていた、という話をきいたことがある。本当かどうかわからないのだけど。
いま書きながら思ったのだけど、私もビールが好きだけど、ビールを飲むときはご飯(炭水化物)は絶対に食べないという本能的な反応は、越智先生のエピソードが「ビール or ご飯」というメッセージを強烈に残してくれたためかもしれないなあ。
偉大な教育者とは、かくして、数十年後にまで残るような教えを(多くの場合、教室外で)残していくものである。越智先生、天国に行ってもビールばっかり飲んでいるんだろうなあ。いつか出会ったら、ビールをついであげて、「私の声、どう変わってきましたか?」と聞いてみよう。