4月にハーマン・デイリーのご自宅で、定常経済という考え方に至った背景や、シニア・エコノミストとして勤めていた世界銀行での反応、定常経済とはそもそもどのようなものなのか、などについて、2時間近く、じっくりインタビューをさせてもらいました。
岩波書店『世界』2014年8月号に掲載されたインタビューを、同誌の許可を得て、ご紹介します。
定常経済とは何か? アベノミクスをどのように見ているか?ぜひご一読ください!
『「定常経済」へ、いまこそ移行すべきとき』
出典:岩波書店「世界」no.859 2014年8月号
ハーマン・デイリー (聞き手:枝廣淳子)
Herman Daly
1938年生まれ。メリーランド大学公共政策学部名誉教授。環境経済学の開拓・確立者の一人。もう一つのノーベル賞と呼ばれる「ライト・ライブリフッド賞」を1996年に受賞。地球環境問題の解決に向けて貢献した個人や団体に贈られる「ブループラネット賞」の今年度の受賞者。著書に『持続可能な発展の経済学』など。
■「不経済な成長」
―温暖化や生物多様性の喪失など、地球はもうもたないという状況になってきたのに、日本も世界も「もっと経済成長を」です。
「経済成長」という言葉には2つの意味があります。
1つは、人やモノを含む経済そのものが物理的に大きくなるという意味です。「経済」の成長ですね。
もう1つは、費用よりも便益のほうが大きい、「経済的な」成長、実質的にプラスになる成長という意味です。
「経済」の拡大が「経済的」とは限りません。「拡大すること」の費用より便益が大きい場合もあれば、逆に、費用のほうが大きい場合もあります。「経済」の成長と「経済的な」成長はイコールではないのに、みんなこの2つをごっちゃにして、「経済成長は良いものだ」と考えているのです。
かつてとは違って、今では、環境問題を含む、経済の成長のための費用のほうが、生み出される便益よりも大きくなっており、「不経済な成長」になっていると考えています。
企業でも、生産を拡大する限界便益よりも限界費用が大きくなる時点で、拡大をやめますよね? 費用が利益を上回るのにどこまでも生産を拡大する企業はないでしょう?
同じように、経済成長の限界便益よりも限界費用が大きくなった時点で、経済成長を続けるのはやめて、「定常経済」に移行するべきなのです。
「定常経済」というと、経済が止まってしまう、死んでしまうというイメージを持つ人もいますが、そうではありません。今と同じように活発な経済活動が繰り広げられ、成長する企業もあれば衰退する企業もある。しかし、経済の規模自体は大きくなり続けない、ということです。
―定常経済という考えはどこから出てきたのですか?
私も最初は、成長経済を信奉する経済学者だったのですよ。今も多くの人がそうであるように、「経済成長こそが、さまざまな問題に対する主な解決策だ」と信じていたのです。その私の考えを変えた要因はいくつかあります。
1つは、古典派経済学を勉強したことです。ジョン・スチュアート・ミルをはじめ、古典派経済学者たちは「好むと好まざるとに関わらず、将来は定常経済に向かっていく」と信じていました。ミルは「定常経済は必要なだけではなく、望ましい」とすら考えていました。今のアメリカでは、経済学を学んでも、こういった古典派経済学者の考え方を学ぶ機会はありません。ですから、定常経済という考え方に出合わないのです。しかし、私のころはそういった教育がありましたから、古典派経済学者たちの考え方に触れることができました。
2つめは、さまざまな環境面での代償について知ったことです。60年代、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』などを読み、大きな影響を受けました。
3つめは、ニコラス・ジョージェスク・レーゲンの「熱力学の第二法則、つまりエントロピーの法則が、経済の中で何が可能かを決定する。経済の中で増加するエントロピーは、経済が達成・維持できる規模を制約することになる」という考え方に出合い、大きな影響を受けたことです。
そしてもう1つは、1967年からの2年間、ブラジルで経済学を教えたことです。そこで、干ばつや水不足、すさまじい人口爆発を目の当たりにしました。
こういったさまざまなことから、私は定常経済に関心を持つようになりました。地球は有限であり、われわれ人間はその下位システムなのですから、いつかは成長をやめるべきだと考えるようになったのです。進歩とは、量的な増加ではなく質的な向上である、つまり成長(growth)から発展(development)へと、考えが変わっていきました。
―それはいつごろのことでしたか?
1965年から67年ぐらいです。1972年には、メドウズたちが『成長の限界』を出しました。この本が出る前から、彼らとやりとりをしており、結論は同じだということがわかっていました。
―定常経済という考え方への反応はどうでしたか?
当時、私はルイジアナ州立大学で経済学を教えていましたが、同僚たちは「変なことを言いだした」と思ったようです。世界のあらゆる問題に対する解決策は経済成長だとみんなが信じていましたから。
この大学には21年間勤めましたが、最後のほうには、学部の方向性が新古典派経済学へと向かっていきましたから、私にとってはとてもやりにくい状況になりました。
ちょうどそのころ、世界銀行が環境部門を立ち上げました。ロバート・グッドランドという、つい最近亡くなりましたが、素晴らしい人がその部門にやってきて、世銀でセミナーを行うように私を招いてくれ、その後、世銀のエコノミストとしての就職面談を受けることになりました。そして、信じられないでしょうけど、採用されたのです。
あとで聞くと、経済学者を雇いたい、しかも生態学・環境のことがわかった人がいい、ラテンアメリカに詳しい人がいい、というこの3つの条件に私が合っていたというわけです。
1988年から94年までの6年間、世銀で働きました。主に持続可能な開発の政策づくりに関わりました。
■根強い成長神話
―それにしても、定常経済を提唱しているあなたを世銀が雇い入れたということは面白いですね。
ええ、みんなびっくりしました。ロバートのおかげですね。最初の1年は試用期間で、1年後にレビューがあります。その時、私がその職にとどまることを望んでいない人も多かったのですが、ロバートがうまく働きかけて、残れるようにしてくれたのです。
もっとも、世銀には優れた人たちがたくさんいました。本当に苛立ちを感じるのは、組織にはあれだけたくさんの素晴らしい人たちがいても、その人たちが合わさると、その良さが全部打ちけされてしまうということです。リーダーシップがあるべき姿とは違うものだったのです。
それに、言うまでもなく、世銀が最も注力していたのは経済成長ですからね。成長こそがすべての問題の解決策だ、と。
―その中で、定常経済を主唱するというのはどういう感じだったのでしょう?
戦いでしたね。世銀という「身体」に、私という「ウイルス」が入ったようなものでしたから。ありとあらゆる白血球がやってきて、ウイルスを取り除こうと攻撃してきました。
しかし、助力もあったのです。私だけが定常経済を考えていたわけではなく、世銀の中にも共感する人たちがいましたし、世銀の経済学者にもこれまでの考えに疑いを持つようになっていた人たちもいます。学問の世界の経済学者に比べ、世銀に勤めている経済学者のほうが、実際の世界に出ていって何かをやろうとし、失敗する、という経験をしていますから、それだけ謙虚なのです。学問の世界の経済学者は、失敗することはありません。理論は常にうまくいきますから。ですから、現実社会からのフィードバックがかからないのです。
このように世銀にも良い面があったのですが、6年間に勤めている間に、この場所は変わることはないなと思うようになり、学究生活に戻りたいと思うようになりました。
ちょうどメリーランド大学から声がかかり、移りました。15年間、教鞭を取りましたが、経済学部ではなく、公共政策学部です。経済学者たちは、私に触れようとはしませんでした。今でも私は経済学の主流からは外れたところにいます。主流派は成長が大事だと考えている人たちですから。
―「定常経済」という考え方に対する人々の反応には変化がありましたか?
少しずつゆっくりと、関心は出てきていると思います。しかし同時に、経済成長へのコミットメントもますます大きくなってきていますよね。米国の政治を見れば、すべてが成長です。今なお、成長こそがあらゆる問題の解決策なのです。その点では、事態は改善していません。
他方、成長にはコストがある。つまり代償が伴うという認識は広がってきています。枯渇、汚染、社会的なストレスといった代償をしっかり見よう、測ろうという動きはあります。しかしまだ、そういったコストや代償を、経済成長がもたらすプラス面と分けて比べることはしていません。それができれば、「成長のコストのほうが、成長のもたらすプラスよりも大きくなっている」ということが言えるのですが。
ということで、問題について考えようという流れにはなっていますが、まだまだ成長へのコミットメントが強いというのが現状です。
定常経済への反論の1つとして出てくるのが、「1929年を見よ。当時、GDPはゼロ成長で、大不況が起こり、人々は苦しんだ。それがいいと言うのか」というものです。
しかし、この議論は「定常経済」と「うまくいっていない成長経済」を混同しています。成長を前提とした経済が成長できなければ、確かに悲惨でしょう。しかし私が言っているのは、成長ではなく、定常を前提とした経済に設計し直すということです。定常を前提として設計された経済なら、成長しなくても悲惨なものにはなりません。
―かつては経済学者も定常経済を考えていたのに、今はそうではない。どうしてそうなったのでしょうか。
2つ考えられることがあります。まず、古典派経済学は「客観的価値論」を採っていました。価値は労働や土地によって決まるという考え方です。その後、1870年代に「限界革命」が起こり、新古典派経済学が出てきました。その考え方は主観的価値論で、価値とは、労働や土地といった具体的なものではなく、効用や満足をどう感じるかによって決まる、と考えます。そこから、価格や価値の限界効用が重視されるようになり、以来、この考え方が主流となって、資源や土地などは背景に押しやられてしまいました。
資源や土地、労働といった物理的なものなら、その限界は見えやすいのですが、効用や満足といった心理的なものになると、限界は見えなくなります。どこまでも幸せになるということがあり得るかもしれない。そうではないと証明することはできませんからね。これが変化の要因の一つです。
もう1つは、その後に出てきたケインズです。大不況が起こり、ケインズ経済学が構築されました。当時の課題は失業でした。失業問題を解決するためには、投資をし、成長することが必要という考え方が重視されました。
時代柄、ケインズの関心事は短期的なことでした。短期的な問題は失業であり、失業者を雇用に戻すにはどうしたらよいか、それには成長だと考え、長期的なことは何とかなるだろうという考え方だったのです。
しかし、ケインズが何とかなると考えていたその「長期的なこと」、つまり経済成長を続けることのマイナスの影響は、数百年後ではなく、もうすでに現れ始めているのです。
興味深いことに、短期的な失業問題に焦点を絞っていたケインズも、長期的なことを考えることがありました。『孫の世代の経済的可能性』という有名な評論では、ほぼ定常経済に近いものを構想しています。ですから彼も、問題や難しさはわかっていた。ただ時代の要請により、失業という短期的な問題に焦点を当てていたのです。
その点でもう1つ興味深いのは、米国で1946年に完全雇用法が施行されたことです。完全雇用こそ国の大きな目標であると考えられていたのです。その目標に達する手段として成長が必要だ、と考えられました。
ところが、今ではこれが逆転してしまっています。完全雇用が目的で、成長はその手段であったはずなのに、今では成長が目的化している。成長のために雇用を損なうことがあったとしても、それは仕方のない代償なのだ、と。オートメーション化を進め、海外へ雇用を移転して失業が増えたとしても、「成長のためにしょうがない」と考えられているのです。
―なぜ、そうなってしまったのでしょう。
成長は、それを導いている人たちにプラスをもたらすからです。大企業など、成長やグローバル化などからメリットを得ていますから。そして経済学者は今でも、成長が貧困などへの問題の解決策だと信じています。成長すればトリクルダウンが起こって、貧しい人も豊かになるだろう、と。実際には、豊かな人がさらに豊かになっているのですが。
―でも、失業などで傷ついているはずの一般の人でも、成長こそが解決策だと信じていますよね。
そうです。アメリカでも同じです。それはなぜか、わかります。成長経済の成長を止めようとしたら、つまり成長経済が失敗したら、失業は発生するし、大変なことになります。
定常経済では、「貧富の格差の幅を制限する」という考えがあります。成長が"不経済"になり、成長がわれわれを豊かではなく貧しくする状況では、成長によって貧困を解決することはできません。そのときの解決策は再配分です。
まったく平等にすると言っているわけではありません。それは恐らく公平ではないでしょう。しかし、不平等の幅が無制限であるのも、さらに不公平だと思うのです。ですから、不平等の幅をある一定の範囲内に抑えるということです。
企業の上位と下位の給与の幅を見ると、日本企業は10~15対1に対して、米国企業では500対1もの格差があります。この点、米国は日本から学ぶべきです。
不平等の格差を制限するというと、共産主義者だ、社会主義者だと言われますが、そうではありません。格差の幅をせめて100対1にすればよい。それでも十分、仕事に対するインセンティブは出るでしょう。
■スループットとGDP
―そもそも定常経済とは何か、詳しく教えてください。
定常経済とは、基本的に一定の人口と一定の資本ストックを持つ経済です。ここでの資本ストックは、幅広く定義しており、すべての耐久消費財も生産財も含まれます。
人間も資本ストックも、エントロピーの法則に従っています。人間は年老いて死んでいきますし、机や椅子にしても壊れて取り換えなくてはならなくなります。
定常経済の定義は、「人口と資本ストックが一定で、それを可能な限り低いレベルでのスループットで維持するもの」となります。
エントロピーの法則に従う人口や資本ストックを一定に保つには、維持したり置き換えたりするための資源が必要になります。この資源を地球から取り出し、汚染物として地球に排出するところまでをスループットと言います。この資源のスループットをできるだけ低いレベルにして、地球の扶養力の範囲内に抑えます。
人口と資本を維持するスループットのレベルは、長期間にわたって人々が「良い暮らし」を送るのに十分であるということ。これが定常経済の考え方です。そうしたとき、進歩とは物理的な量的拡大ではなく、質の向上を通して得られることになります。デザインや技術、倫理的な優先順位の向上などが発展の要素になってくるのです。
今「定常経済とは、一定のストックを最小限のスループットで維持するもの」と言いましたが、逆から見て、「定常経済とは、一定のスループットでサポートできる範囲でストックを最大化するもの」という考え方もできます。同じことなのですが、スループットを一定にすると言ったほうが、地球の扶養力との関連が直接的にわかりやすいかもしれませんね。
―スループットはどうやって測るのでしょうか?
よく知られているエコロジカル・フットプリントも役に立ちますし、マテリアルフロー・エネルギー勘定も国民所得勘定のグリーン化を目指して研究されています。GDPを置き換えるまでにはなっていませんが、サテライト勘定として位置づけられています。スループットはさまざまなものの総計ですから、測るのは難しいですし、そう言われるのですが、GDPはさらにさまざまなものの総計ですから、「GDPこそそうではないか」と言えるでしょう。
―スループットのレベルの現状はどうなのでしょうか? エコロジカル・フットプリントの計算では、現在の人間活動を支えるのに地球1.5個分が必要とされていますが、地球は1個ですから、1以下に下げなくてはならないのですよね? ええ、そうです。環境的な扶養力には2つあります。資源を再生する再生能力と、廃棄物を同化する同化能力です。再生可能な資源については、この両方が大事になってきます。
人間の時間軸では再生できない再生不可能な資源については、今すべて使ってしまうのか、それとも未来世代と分かち合いながら使っていくのかという倫理的な問いになります。
―先ほどの定常経済の定義で出てきた、「良い暮らし」とはどのように定義するのでしょう?
重要な哲学的な問いですね。さまざまな研究からも、また常識的にも「十分」というレベルがあるのだと思います。物理的な富が増えていくとき、あるところからは、富が増えても幸せはそれ以上増えなくなります。より幸せにならないとしたら、何のための成長なのでしょう? しかし経済学者は、こういった問いは聞かれたくないのです。
再生不可能な資源を未来世代と共有するとき、その重きをどうするかということも考えなくてはなりません。今があってこそ未来がありますから、まず今必要なものを考えるべきだということではありますが、しかし、未来世代にとって必要なものは、現世代のぜいたくよりも上位に来るべきです。
こういった問いは経済学でも重要な問いでしたし、かつての経済学者は考えてきたことです。しかし、今の経済学者はこういったことは語りません。「それは価値に関する判断だ。われわれは科学者だから価値判断はしない」と言うのです。
―定常経済とは、GDPが成長しない経済ということでしょうか?
いいえ、GDPは成長する場合も、縮小する場合も、同じ場合もあるでしょう。定常経済の観点からすると、GDPは関係ないのです。人々の幸せを測る上では、あまりにもおそまつな尺度ですから、私は気にしていません。
とはいえ、GDPはみなが注目する数字です。興味深いことに、GDPはスループットのかなり良い指標となっています。GDPが増えれば、スループットも増えるというわけです。
―GDPはスループットと高い相関があり、スループットは一定にすべきとしたらGDPもゼロ成長になるのではないでしょうか。
それは相関から出てくる結果です。スループットを一定にすると、スループットはGDPと相関しているから、結果的にGDPもゼロ成長になる、ということはあるでしょう。しかし私は、政策として「GDPを一定にすべきだ、ゼロ成長にすべきだ」と言っているわけではありません。一定にすべきは、物質とエネルギーのスループットなのです。
GDPの中には、ストックを保つためのものもありますから、「GDP自体を一定に保つべき」という言い方ではないほうがいいでしょう。また、量的な拡大ではなく、質的な発展の可能性はあります。あなたが持っているiPadだって、いいものでしょう? こういったものは、ニーズを満たしたり、幸せをつくり出したりしますよね。それがスループットの成長を伴っていないなら、つまり、これほど良くないほかのものから資源を再配分することでつくり出されるとしたら、これは質的な向上となります。そのときに、より高い価値を生み出すためにGDPが増えることもあるでしょう。
GDPに関しては、プラス面とコスト面に分けて計算すべきだと考えています。現状では効用もコストもすべて足し合わせていますが、分けて計上し、限界費用と限界効用を比べるのが良いと思います。
―多くの人が、環境問題があるということはわかっていながら、「経済成長を止めなくても、技術が解決してくれるから」と言います。
スループットに限度を設定して、技術の力でさらに生産性を上げ、同じスループットでたくさんのものをつくり出すことができるとしたら、純粋な進歩でしょう。
技術には、このようにより効率を上げることで、資源やエネルギーの総量は増やさないで、よりよいものをより多くつくるというものもあります。同じ量を食べても得るものが多い、つまり消化が良いものです。しかし、単なる大食漢で、どんどん食べてしまうだけの技術もあります。スループットが増えてしまう技術は必要ありませんし、問題を解決しません。
「技術があれば何とでもなる」と楽観的に考えている人たちが、スループットが増えてしまう技術を考えているのであれば、「それは違う」という話が必要ですし、同じ資源、同じスループットでより多くのもの、より多くの満足を生み出す技術の話をしているのであれば、「それは大切で必要なことだから、進めましょう」と答えます。
―失業や環境問題、人口増加など、さまざまな問題に対して、「経済成長なくしてどうやって解決するのだ」と言う人がいますが。
最初のところからもう一度考えてみる必要があります。つまり、「経済成長は、私たちを豊かにしているのか?」ということです。豊かになっていれば、今挙げたような問題は解決しやすいでしょう。豊かになることは、私も賛成です。
ほとんどの人は、「経済成長すれば、豊かになる」と思い込んでいます。しかし、本当にそうなのでしょうか? 成長が不経済なものになってしまえば、成長することは私たちを豊かにするのではなく、貧しくしてしまいます。貧しくなってしまえば、先ほどのような問題を解決することは、より難しくなるでしょう。
ですから、考えるべきことは、「経済成長は私たちを豊かにしているのか、それとも貧しくしているのか」ということです。経済学者はこの問いに焦点を当て、より良い答えを導き出す必要があります。
―「脱成長」「縮小経済」という考え方もありますが、定常経済とはどう違うのですか?
現在の人間経済は、生態系が持続可能に支えられる以上に大きくなっています。ですから、今の規模で定常化しても大きすぎます。ですから、まずは脱成長して規模を縮小し、持続可能なレベルになってから、定常化を図ることになります。
そういった意味では、定常経済と相入れる考え方ですが、経済成長を永久に続けられないのと同じように、脱成長・経済縮小を永久に続けることも不可能です。いずれにせよ、最初に必要なステップは成長を止めることですが。
―日本語の「成長」には、人間の成長とか子どもの成長とか、良いイメージがあります。「経済成長」ではなく、「経済拡大」という言葉に変えたらどうかと提案しています。そうすれば、より中立的なイメージになりますから。
それはいいアイデアですね! 英語でも同じです。Growthと言うとポジティブな意味合いを含みますから。
■定常経済から見たアベノミクス
―次に、日本の状況をどのように見ていますか? アベノミクスは、経済や社会の問題を解決するために、成長をさらに推し進めようという政策です。
私は日本についてはあまり多くは知らないということをお断りしておきますが、その上で、「金融緩和で金利を下げ、民間投資を刺激しよう」という政策は、米国も同じことをやっており、それについての意見を述べることはできます。
まず、それは良くない政策です。公共投資をある範囲で増やしていくのは、もしかしたら良い政策かもしれない。それに反対を唱えるつもりはありません。しかし、ただマネーサプライを増やし、金利を下げて民間投資を刺激しようというのは、良い考えではありません。
われわれが生きているのは、どんどんと資源の制約が強まっている世界です。その中で、高いリターンの得られる投資を見つけることは簡単なことではありません。高いリターンが得られるのは、資源資本を搾取するときなのです。すでにそこに立っている木を伐採する、鉱山を開発する、井戸から水をくみ上げる、石油を採掘するなどは高いリターンが得られますが、今ではこういう機会はあまりなくなっています。もちろん、ハイテクなどで儲かるときもありますが、全体的に見れば、良いリターンをもたらす新しい投資の可能性は減ってきています。
その状況で成長を推し進めようと、金利をゼロか低いものにしたら、どうなるでしょう? もちろん、銀行も個人も、コストがゼロに近いわけですから、お金を借りるでしょう。しかし、良いリターンのあるプロジェクトがないとしたら、借り出したお金はどこに向かうのか? 今すでにある資産に向かいます。家や土地、石油会社だったら既知の油田の埋蔵量を買う、などです。
そうすると、お金は現在すでにある資産の値をつり上げる方向に向かっていきます。既存の資産の持ち主は儲かりますから、もっとお金を借りて、もっと上がるだろうと思うでしょう。言ってみればバブルです。多くのところでこういった事態が発生しています。金融緩和の政策は良くないと思う1つの理由です。
もう1つ、この政策を好まないのは、これが部分準備銀行制度を通して機能するからです。このことを理解するのに長い時間がかかりましたが、今では、この部分準備銀行制度が良くない制度であるとわかっています。
この制度は、民間銀行にゼロからお金をつくり出し、それを金利付きで貸し出す権利を与えているのです。いってみれば、お金の偽造です。普通ならお金を偽造すれば刑務所に入れられますが、民間銀行は、何もないところからお金をつくり出し、金利付きで貸し出すということをやっているのです。
普通の人は、1ドル得るためには何かをしなくてはいけない。そして、その1ドルを使って、引き換えに何かを得ることができます。もし私がただでお金をつくることができて、それを使って何かを得ることができたとしたら?
お金の循環に最初にお金を投入することを「シニョレージ」と言います。通貨を発行することで得る利益です。現在は、このシニョレージの権利を、民間銀行に与えているのです。おかしなことです。
ですから、部分準備銀行制度から100%の準備金制度に変えていくべきです。すべての貨幣は政府が発行し、シニョレージは政府が得て、それを公共財に投資をしていく。そうすれば、お金は、現在のように私的な金利を持った負債ではなく、金利を持たない公共財として機能することになります。
経済学者の中には、お金を道路に例える人もいます。お金も道路も公共財です。道路は誰でも使える公共財ですから、誰かが勝手に料金所を設置して、「この道路を通るならお金を払え」と言ったとしたら、それはゆすりでしょう?お金はこの道路と同じようなものなのに、銀行は道路料金所のように、「お金を得たかったら金利を払え」と言うのです。
―日本についてもう1つ。日本は出生率が低下し、移民も少ないので、人口減少が大きな社会問題になっています。一方で、定常経済に最も近い国、ということもできるかもしれないと思っています。
日本が、定常経済に向かっていき、消費意欲が減っていけば、人々のエネルギーは、より対人関係に向けられるでしょう。そこに幸せを見いだし、友情や家族をより重視するようになる。そうすれば、これはまったくの憶測ですが、置き換え水準を超えるほど出生率が上がってくるかもしれません。
移民の問題はもっと複雑です。今後大きな問題になってくるのは、大量の環境難民でしょう。
米国には多くの不法移民がいます。勤勉ないい人たちですが、米国企業は何の権利も持たない安価な労働力としてこういった人たちを雇うことから、階級間の抗争や衝突が問題となりつつあります。これはとても複雑な問題です。
人口減少の答えとして、大量の移民は答えにならないと思っています。それよりも大きな問題は年齢構成でしょう。人口増加が止まれば、自然の成り行きとして高齢化が進みます。定年退職の年齢を後ろ倒しにする、年金額を下げるなど、制度を変える必要があるでしょう。
―ある研究者によると、日本の江戸時代の250年間、経済成長率は年0.4%だったそうです。成長を前提としていない、いわゆる「定常経済」が存在していました。
ヨーロッパでも同じように、産業革命以前は、規模がほとんど大きくならない経済がずっと続いていました。
―日本もヨーロッパも、そういった定常経済のような歴史があるわけですが.....。
ええ、米国にはありません。米国は生まれたときから成長し続けている国です。島国でもありませんし、「進めば、まだ先が開ける」と、どんどんと成長をしてきました。ですから、米国人にとっては、成長というのは根っから染みついたものになっているのだと思います。
経済成長を続けることが生物学的・物理学的に不可能になるはるか前に、定常経済が望ましいタイミングが来ます。それは、経済成長を続けることのコストが便益を上回るときであり、日本や米国をはじめとする先進国にはすでにそのタイミングが来ているのです。