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パタゴニア日本支社長の辻井さんに聞く「経済成長についての7つの問い」

2014年12月19日
パタゴニア日本支社長の辻井さんに聞く「経済成長についての7つの問い」

「何かを最優先するということは、何かを最優先しないということなので、必ず犠牲は生まれる。定量化されない価値が犠牲にされてきた」ーー幸せ経済社会研究所のサイトにアップされたパタゴニア日本支社長の辻井さんへのインタビュー、いろいろ考えさせられます。ぜひじっくりお読み下さい。

Q. 経済成長とはどういうことでしょうか。

いろいろ答えがあると思います。僕は経済学の専門家ではないですが、一般的には、対象にしているエリアの経済活動が増大する、拡大するということだと思います。

僕が問題だと感じる点は、「そこにどれだけの資本が投下されて、それによってどれだけの利潤とか余剰価値が生まれるか」、それだけが重視されていることです。

そういう意味では、「資本主義」という枠組みといわゆる「経済成長」というのはセットになっているのかなという印象を持っています。

これまでのインタビューを拝見しても、国の単位で見て「経済成長はGDPの成長です」とおっしゃっている方がいらっしゃいました。国という単位での経済成長を測る指標として、生産量を見るというのは、そうなんだろうなと思います。

Q. 経済成長は望ましいものでしょうか。それはなぜでしょうか。

以前、京都大学で経済活動について議論する機会があったんですが、その中で「資本主義が生まれた背景には、必ず何か理由があるはずだ」という意見がありました。さすが京都大学だなと感心したんですが、確かに、すべての仕組みは、必ず理由や社会的な要請があって生まれてくるものだと思います。そういった時代的な背景を考慮しないで、スナップショットで「経済成長はいいか、悪いか」だけを問うことは出来ないのではないかと思います。

Q. 21世紀、今という時代背景で見るとどうでしょうか。

そうすると、次の質問にも重なりますが、今、日本だけでなくて、地球全体の単位で見ても、経済成長そのものを目的とすることは、理にかなっているとは思えません。

もともと経済成長が持っていた意味を考えると、そもそもは、誰かを幸せにするために、もしくは自分が幸せになるために始まった話なんだろうと思います。

20代のころの個人的な話ですが、両親と外食すると、うちの父がすごくたくさん注文するんです。で、余るんですね。僕は、それがすごく嫌で。そのころは、反対する以外にコミュニケーションの方法を知らなかったので(苦笑)、生意気にも「なんでそういうことをするのか。必要な分だけ頼めば良いじゃないか。食べ物を無駄にしたらもったいないじゃないか」と。

でも、ある時、どうしてそんなにたくさん注文するのか聞いてみたんです。そうしたら、「戦争中に疎開の経験があって、イモを盗んで生で食べていた。ご飯がないという夢で起きたことが何回もある。だから、食べ物に囲まれていないと嫌なんだ」と。

その話を聞いたあと、何も知らずに父の行動を批判していたことを反省しましたが、父も父で無駄に頼むようなことをしなくなったんです。コミュニケーションを取るには相手の立場を考えることが大事なことを思い知ったのと同時に、戦後の日本という社会で衣食住もままならないという中で、経済成長は一定の役割は果たしたのだろうな、ということは想像できました。

それがあるから、今こうやって幸せに、僕たちの世代は「経済成長は必要か、必要じゃないか」という議論ができている。なので、時代の流れとともに見ていくという視点が必要だろうと思います。

「今は必要じゃない」と思うのは、成長自体が必要かどうかの前に、「持続可能ではない」と思うからです。究極的には、今使われている意味での「経済成長」、つまり、地球全体や特定地域で経済規模が拡大し続けるという意味での経済成長は、不可能だと思います。

Q. 「持続可能ではない」というのは、どういうことでしょうか。

理由は、大勢の方がおっしゃっていますが、経済そのものが地球の資源に依存しているので、限界なく成長しようとしても、資源の有限性という殻にぶつかってしまう。だから物理的に不可能です。

「経済成長とは、経済規模の拡大」という前提は先ほど述べた通りですが、これはつまり、「生産」と「交換」という行為がどんどん増えることだと思います。「生産」を前提にしている以上、仮にそれがサービスであったとしても、元をただすと、何らかのモノを地球から借りて、つまり、資源を使って生産をしているわけです。

「0から1は生まれない」という当たり前のことを大学院で教えられてハッとさせられたことがありましたが、物質は、液体、気体、固体と形は変わっても、その質量は変わりません。つまり、魔法のように、何もない所からは何かが生まれる、ということはないのです。

枯渇すると言われ続けている化石燃料がまだ採掘可能なことを指摘して、「そんなことはない」とおっしゃる方もいますけど、資源そのものが有限であるということは、多くの人が知るところになっていますよね。

一つの例として、人間だけでなく多くの動植物にとって必要な水資源はかなり深刻な状態です。例えばカリフォルニアやアリゾナに生活用水や農業用水、工業用水を提供するコロラド川は、もう10年以上も海から100マイル以上も手前でヘドロになっていて、そこから先は、メキシコ湾までずっとひび割れた大地が続いている。そうなってしまった理由は簡単で、コロラド川に注ぐ雨水が溜まるスピードより、人間が水を使ったり、ダムで蒸発したりするスピードの方が速いからです。

パタゴニアは、たくさんのコットン製品を作っています。例えば、Tシャツ。パタゴニアでは、灌漑用水や染色等で使う水を出来るだけ減らす努力をしていますが、それでも1枚のTシャツを作るのに2000~4000リットルもの水を使っています。もし世界中の人々が、毎年買って飽きたら捨てるということを繰り返せば、多くの河川がコロラド川と同じ運命を辿ることも非現実的な話ではありません。

今、世界の人口は約70億人ですが、2050年には90億人になり、その内、10億から20億の人が貧困生活から抜け出せるとも言われています。それ自体はとてもよいことですが、今の先進国の大量消費や大量廃棄という仕組み、もしくはそれをベースにした「モノを次々と所有することによる幸せ」を前提にして生き続けると、資源は絶対に足りなくなります。

そういう現状を考えると、今の「経済成長」を続けることは不可能だと思います。

Q. それでも経済成長を続けてきたわけですが、経済成長を続けることに伴う犠牲があるとしたら、何でしょうか?

経済成長で大切にされている価値というのは、基本的には「定量的なものを増やす」ことですよね。金銭や株の価値を上げていくことを優先する。何かを優先すればするほど、何かは優先されなくなる、という原理が働きます。構造的に、何かを最優先するということは、何かを最優先しないということなので、必ず犠牲は生まれる。そういう意味で、定量化されないような価値は犠牲にされてきたと思います。

例えば「あいつは優しいから(それだけで)給料を上げてやろう」という企業は、資本主義の競争社会の中では勝ち抜くことが出来ません。それは、企業だけが悪いわけではなくて、そういうルールの中で闘っているから、多くの企業はそんなことできなくなっているわけです。システムが意思を持っている、と言っても良いと思います。株主からは文句言われるかも知れないし、「いや、おれは優しい人間や誠実な人間の給料を上げてやりたいんだ」と言い張れば、その社長はクビになってしまうかも知れません。

もう一つ、犠牲になってきたことは「自然」だと思います。自然の価値を本当の意味で定量化することは出来ません。その価値を便宜的に数値化することで「各企業の環境負荷を負担させる」という会計理論が語られているのを別とすれば、僕は、今でも自然の価値そのものを数値に置き換えるというのはナンセンスだと思います。人々にとって故郷は掛け替えのないものであるのに、各地の自然をどちらの価値が高いかという議論の枠に当てはめるのがナンセンスなのと同じです。

いずれのケースでも、「定量化されないものがどんどん価値のないものとしてとらえられるようになった」ということが犠牲の大きな要因だと思います。

  Q. 優しさや誠実さ、自然のように、定量化できないのは価値がないものとされてきた。それらが優先されないことで、実際の弊害は......

それがまさに「幸せ」という話につながってくると思います。

その枠組みを生んでいるのは、近代合理主義と言われているパラダイムだと思います。そのパラダイム、つまり「思考の枠組み」の一番の特徴は、「あらゆるものを最少単位にまで分割して、それを数式に表した上で、その優位性や特性を比較する」というものです。

たとえば、「水」は、水素が2つと酸素が1個という形で分解しないと、改良したり、他の液体と比較できないから、H2Oという数式に表されます。それ自体は必要なことかも知れませんが、一方で、水資源がどれほど人間や動植物にとって大切なものか、それがどれほど危機的状況にあるかという議論はあまりされなかったりする。

この考え方を人に当てはめると、地球というものがあって、国があって、社会や地域があって、会社があって、部門があって、個人というふうになる。個人は、英語ではindividualと言いますが、もともとはin-divide、「これ以上分けられない」という意味です。そこでは、社会の最小単位たる個人は、比較され、優劣をつけられる対象になるんです。競争社会では、個人の計算能力や業務処理能力だけが重視され、例えば正直者はバカを見る、みたいなことがあちこちで見られます。

「人間」という言葉が示すように、日本には「人」と「人」の「間」が重視にされるという文化があります。しかし、富の拡大や余剰価値の拡大という、金銭の拡大が重視されるため、その人がどれくらいものを売ってくるか、どれくらい早く仕事が終わるかということの評価に過度に重きが置かれる。

そういうことが、人々が幸せと感じるかどうかに深くかかわっている気がします。ということで、「経済成長によって日本では何が失われたか」を考えていくと、人間そのものの価値――「文化」と言ってもよいかもしれないですけれど、人間の見方そのものが変わってきてしまっているということが大きいと思います。

人間の価値に対する考え方がそういう形で変わっていく中で、人間は「自然との健全な関係性」も同時に失ってきたと感じています。

さきほどと同じ理屈で、近代合理主義では、独立した存在である「人間」と「それ以外」とは分けられて、結果として、自然は人間から切り離された客観的な存在とみなされます。そうやって対象化された自然は、「人間が使えるものかどうか」にという「利用価値」だけで評価されるようになる。

だから、自然を改良しよう、もっと価値のあるものにしようと、広葉樹林は伐採されて針葉樹の人工林に植え替えられ、川は三面張りにされて、砂防ダムができる。電力や治水のためには必要だという理由で、ダムが作られる。海は危ないからと、海岸はすべて防潮堤で囲われる。

でもそうすると、自然本来の恵みがどんどんなくなってくる。つながりがなくなることによって、森も川も海も全部ダメージを受けて、最終的には人に返ってくる。

「自然は使えるから価値がある、使えないから価値がない」ということと同時に、僕たちがやってきたのは、その時の科学で評価できることだけを真実としてとらえる、ということです。その時の科学では分からなかった、その技術が持っているリスクなどは評価されない。同時に、その科学では評価できない「自然が持っている本来の価値」も評価しない。

その結果として、人間が都合のいいように自然をつくり変えて、本来受けるべき自然の恩恵を受けられなくなっていることが沢山あります。

今、ちょうどダム問題を取り上げた『ダムネーション』という映画の上映をやっています。すごく象徴的なのが、冒頭のルーズベルト大統領の演説シーンです。「この無価値だった、ただ単に山を流れて海に注ぐだけだった川が、人間にとって価値のあるエネルギーを生む装置に生まれ変わったのです」。あれはまさに、20世紀の近代合理主義を象徴するコメントです。

当時は、戦争が正当化されていて、飛行機をたくさん造らなくてはいけなかった。それで電力が足りないという理由もあって、ダム開発が進んだわけです。スナップショットで見れば、その当時の人たちは恩恵を受けているわけですね。

でも、時代の流れとともに、今度は川が海に行かなくなってどうするんですか、と。水がなくなるから淡水魚が減り、海の漁業にも影響がでている。

日本にも同じような話があります。日本で初めての撤去対象となった荒瀬ダムが作られたのはもう50年も前です。荒瀬ダムのある球磨川を本来の美しい川に戻すというゴールを追いかけ続けている、つる詳子さんという女性にお話を伺ったのですが、ダムが出来て河口の青海苔が育たなくなった、長さも短く、栄養がないから色も薄くなっていた。ところがダムの撤去が決まって放流が始まって一年が経った今、その長さは3倍に伸びて、色も緑になって、漁師さんは喜んでいるそうです。ウナギもずっと築地に卸す分くらいしか捕れなかったので、全部東京の人が食べていた。それが近所のスーパーにも並んだりするようになってきた。きれいな川で遊ぶ子どもたちも少しずつ増えてきた。

一番印象的だったのはダム湖に溜まっていた堆積物の話です。本来は雨と共に土砂が流され、河口に砂を運ぶことで沿岸の洲がつくられる。それによって緩衝地帯ができて、高波などの水害から町を守ることにもつながる。ところが、ダムを造ったらそうした土砂はダム湖に堆積するから、川床は剥き出しの岩盤になり、河口に砂も届かない。大雨が降ったときだけ慌ててダムを開けるので、ヘドロ化した堆積物の流下による大きな被害が発生する。ダム建設後10年目に起きた水害の時の写真を見ると、まるで東北大震災で津波の被害にあわれたような家屋が目につきます。そういうことは、ダム建設当時の科学では予測がされていなかった。

そういう意味で、1つのことだけに夢中になるのではなく、全体を見ることが必要だと強く思います。

もう1つ、経済成長と共に失われたものがあるとすれば、それは日本人がもともと持っていた自然観ではないかと思っています。

僕が影響を受けた『自然保護を問いなおす』という本の著者である鬼頭秀一さんという方が、著書の中で、人間と自然の関係を「生身」と「切り身」という面白いメタファーを用いて整理されています。例えば魚との関係であれば、スーパーに行ってお金を払って「切り身」を買うのが文字通り「切り身」の関係、魚を突いて捕るのは「生身」の関係です。「切り身」の関係しか持たない場所では、自然の知恵や自然の本来の価値などを知ることが難しくなる。さっきお話した利用価値以外の価値は軽視されがちになります。

今回、インタビューを受けるということで、大学院の時に使っていたノートを一生懸命探したんです。そうしたら、94年ぐらいに放送された「川はよみがえるか 森と川と人と~高知・四万十川~」というテレビ番組に関するメモが見つかりました。そこには、「秋の夕焼けに鎌を研げ、秋の朝焼けに田の水放て」と。秋に夕焼けが出ると次の日晴れるから鎌を研いで収穫の準備をしなさい、秋の朝焼けが出ると雨が降って田んぼの水が増え過ぎると米がダメになるから田の水を放ちなさい、という農家さんの知恵に感動したんだと思います。

こういうことが少しずつ失われつつあるのではないでしょうか。

そういえば、僕には、世界中の漁村をシーカヤックで巡って、素潜りをしながら、ひたすら漁民の話を聞き続けている八幡暁君という変わった友人がいます(笑)。彼は、素潜り漁と漁師への関心が高じて、オーストラリアから日本までシーカヤックで渡るというプロジェクトを一人黙々と続けています。とんでもない冒険です。でも、彼は自分が冒険家と言われることを嫌がるんです。

彼曰く、「僕、冒険家じゃないです。冒険家というのは、8000m峰とか前人未踏の場所に行く人のことで、僕は昔の人間がやっていたことを繰り返しているだけなんです」と。今度、よかったら紹介します(笑)。

八幡君によれば、世界中の漁村で共通なのは、漁師さんは、知らない小舟に乗ってやってきた汚らしい自分を見ると、「おう、どこから来た。これ、うまいぞ。取れたてだから食べろ」とご馳走してくれる。漁師にとって魚は商品だから売ればお金になるのに、一番いいもの、自分の一番自慢の魚を出してくれる。彼は、どうしてだろうとずっと思っていたらしいんですが、この間、僕も同じことを体験しました。

八幡君は今、高知大学の名誉教授と共に、黒潮を追いかけながら漁村を回って話を聞く「海遍路」という海の旅も行っています。先日、その一環で、気仙沼の唐桑半島にあるカキ漁師の畠山さんを訪ねて、仙台からシーカヤックを漕いで北上する「海遍路 東北編」という企画がありました。防潮堤の様子を視察したり、漁師さんの話を聞きながら北上しようという計画で、全部で200数十キロの行程だったんですけど、僕は最後の畠山さんの所に行く25キロだけを一緒に漕がせてもらったんです。

実際にカヤックを漕いだ前日に、八幡君一行がキャンプをしていた小泉地区にある小さな漁港を訪ねると、例によって地元の漁師さんが、カレイの煮つけを持ってきて下さったところでした。よくよく話を聞いたら、その漁師さんは、やはり津波で家も車も流されて、多額の借金をして漁船を買ったそうです。「明日、何時に出るんだ」と聞かれた八幡君が「風が吹く前には漕ぎ終えたいから、朝7時ぐらいに出ます」と伝えると、翌朝6時半くらいに、その漁師さんは奥さんと一緒シラスを持ってきて下さったんです。釜揚げにして、人数分のお皿とお箸と醤油も一緒に。

「どうしたんですか」と聞いたら、「せっかく小泉に来てくれたんだから、朝、船を走らせた」と言うんです。朝6時に、僕たちだけのために。とても美味しいシラスでした。

八幡君から聞いた話によると、東北で出会ったある漁師さんが「俺たちは太平洋銀行に食べさせてもらってるんだ。だから元本に手を付けちゃいけない。たまたま自分たちは海とつながって、その利子を頂いているだけだから、余った分は、みんなにあげて当たり前なんだ」とおっしゃっていたそうです。食べていくために必要な分は売るけど、後はみんなで分ければいい。漁師さんにも、近代合理主義の荒波の中で、大型船を買って、取引を増やして、みんなを食わせてやらないといけないという立場にある人もいれば、こういう人もいっぱいいるんだなと思いました。そして、こういう考え方こそ、僕たちが失ってはいけないことじゃないかなと。僕がこんなことを言える立場にないことはわかっていますが、小泉地区で出会ったこの漁師のご夫婦、めちゃくちゃ幸せそうでした。

Q. 辻井さんは昔から「日本人の自然観」のようなものに関心があったのですか?

僕は、大学を出た後、トヨタの系列会社で3年ぐらい働いていたんですが、その後、ドロップアウトしていわゆる「プータロー」になりました。90年代の中ごろの話です。世間の目も結構厳しいし、「辻井、プータローらしいよ」みたいなうわさにもなる。これはいたたまれないと思って、逃げ込むように大学院に入ったんです。そこで、すごく良い先生に出会いました。日本人がどんな自然観を持っていたんだろうというのは、研究テーマを考える中で初めて関心を持ちました。

大学院で学んだことの一つは、人間から切り離されて、対象化された「自然」という、今日的な意味での自然という概念は、日本語にはずっとなかったということ。

18世紀だったか、オランダから医学が入ってきたときに、蘭日語辞典を作ることになった。杉田玄白などがかかわっていたと思いますが、そこにNATURR(ナトゥール)という言葉が出てきて、辞書を作った人は困るわけですね。「何だろう、これは?」、どうも、「人間以外の全部のことを"自然"という概念で呼んでいるらしい」と。

僕の調べた限りでは、1700年代までは、日本には、「自然」という考え自体がなかった。アニミズムの世界では、人間は「全て(全体存在)の一部」じゃないですか。北米インディアンにもエスキモーにも、もともと「自然」という言葉はない。

そういう訳で、蘭日語辞典の編纂者は「おのずから」とか「しぜんさ」を意味する「自然(じねん)」という言葉がどうも一番近そうだと、その漢字を「自然(しぜん)」と読ませた。これが、近代的な意味での「自然」という概念が生まれたきっかけになった。

それまでの日本人は、自然に利用価値があるとか、ないとか言う前に、人間と自然を切り離してすらいない。対象化されていないから、人間が壊すとか守るかいうのも、もちろんない。「日本の自然保護は遅れている」と言われている背景にはそうしたことがあったんじゃないか、というのが僕の修士論文のテーマだったんです。

日本人は戦争に負けて、急激な近代化の中で西欧に「追いつけ、追い越せ」で、無自覚に対象化された自然を壊し続けた。アメリカやヨーロッパの人は、デカルトから始まる「自然はコントロールできる」という哲学とともに、自覚的に自然を切り離してコントロールしたから、「やり過ぎた」と言って「直そう」という方向に行きやすいですけど、日本は、そこを自覚的にやっていないから、ゴチャゴチャしてくるんではないかと。

そういう意味では、パタゴニアでやっている自然保護の活動も、1つは、これ以上自然を破壊しないというレベルの話と、もう1つは、もっと深いところで「自然とどう付き合うのか」というレベルの話があって、後者の方は、前者にも増して文化的な背景を考慮することが必要な、簡単にはいかない問題なのではないか感じています。

Q. 最後の質問になりますが、「経済成長」と、私たちが目指している「持続可能で幸せな社会」の関係はどうなっているとお考えですか?

そもそも経済成長は「人間が幸せになるためには富の増大が必要だぞ」という考えのもとで始まった訳ですが、資源が足りないという外的な要因にぶつかった今の時代は、「経済活動が持つ本来の意味は何だったのだろうか」、それから「幸せとは何なのか」という、この2つのテーマを真剣に考え直す良い機会なのではないかと思っています。

これも有名な話かも知れませんが、「エコノミー」の語源は、「オイコス+ノモス」ですよね。「オイコス」は古代ギリシャ語で、わが家、もしくは住んでいるエリアという意味。ノモスは「法」「律する」という意味。一方で「エコロジー」という言葉は、「オイコス+ロゴス」が語源。ロゴスは「学問」「言語」「知性」などと関連の深い言葉です。

環境問題というのは、究極的には「自然を壊しつくすことなく、また資源の限界を超えずに、人間がこの地球上で長く幸せに暮らしていけるか?」という話だと思います。そういう意味では、「わが家(地球)のことを良く学ぶ」という意味を持つ「エコロジー」と「わが家を律する」という意味を持つ「エコノミー」のバランスを見つめ直すことが大事なんだと思います。

変な例え話ですけど、野球部のマネージャーに指名されて「9人の選手がいるから、チームをつくってくれ」と言われたとしましょう。一人一人の特性を学んで良く理解する前に、「君、ピッチャー頼むね」とか「あなたキャチャーね」なんて言わないでしょう?「この人は肩が強くて、肝も据わっているから、ピッチャーが良いかな」とか、「彼、足は遅いけど、人の心を読むのはうまいし、冷静だからキャッチャーだ」とか考えますよね?まず学んで、知ってから、それを律する、マネージする、というのはとても当り前の話だと思います。

僕たちが今やっていることは、地球の資源の状態やそのインパクトは何なのかということを知ることなく、もしくは、今の科学が解明できる範囲だけをもって「知った」ことにして、経済成長を優先しているということです。

「知る」というのは、科学的に知るという意味だけではなくて、経験的に知るというのを含めて大切です。さきほどの漁師さんの話や、農家さんの知恵とか、そういうものを含めて全部。そういう「知る」ということと「律する」ことのバランスが取れている経済が実現出来れば、人間が生きていくために必要な衣食住がまかなえて、昔の日本人が持っていた「足るを知る」のような価値観をベースとした幸せな社会が実現できるような気がします。

「これ以上の経済成長は必要ない」と最初のほうの質問で答えたのは、食糧そのものはもう十分すぎるほどあるし、富自体も十分にあると考えているからです。あとは社会システムの問題です。今の世界では、富が正当に分配されてない。1日1ドルでの生活を強いられている人々が10億人もいるというのに、リーマンショック後のウォール街で働くマネージャークラスの冬のボーナスが、平均5000万円だったというのは、何かがおかしいと考えるのが正常ではないでしょうか。

そういう意味では、ポイントは、経済の仕組みにあるのではなくて、社会システムにあるのだと思います。新自由主義とか自由主義とか。自由を追い求めすぎると、そのほかのことの優先順位が低くなってくるので、平等ではなくなる。平等を追い求めすぎると、それ以外のことの重要度が下がるので、不自由になる。

さっき話した八幡君は、「世界中のプリミティブな漁村で、食いはぐれる人は1人もいない」ことを体験的に理解できたと言っていました。何故なら漁の収穫が村人全員に分配されるから。どんな立場の人も、全部ひっくるめて村だから、と。

そういうことなんじゃないかなと思います。経済成長を考える上で最も大切なことはバランスなんじゃないかと。自由と平等、エコノミーとエコロジー。それぞれの関係性やバランスをしっかり考えることが大切だろうと思います。

もう1つは、人間の幸せとは何かを改めて問い直すこと。

人の役に立ったり、誰かに喜ばれたりする瞬間というのは、どんな人間にとってもすごく幸せなんだろうと思います。反対に、人に迷惑をかけたり、誰かが泣いたり、泣かせたりするのが本当に好きな人って、あまりいないのではないかと思います。そういう意味で、お互いがお互いの役に立つことが自然とできるような社会的な仕組みがあったら良いのにと思います。

今の資本主義を中心とした世界では、無意識のうちに、無自覚のうちに、誰かを傷つけてしまうということが、構造として存在しますよね。アパレル業界で言えば、洋服作りで、誰がどこでどんなふうに作っているのかという事実が公表されていないという構造によって、消費者が、遠い世界の貧困層の方々を苦しめることに無自覚のうちに加担している、というようなことが実際に起こっています。

マズローの5段階欲求説にある、「生理的欲求」や「安全欲求」が万人に共通していることに反対の意を唱える人はいないでしょうが、マズローが亡くなる直前に、5段階の最上位に位置付けられている「自己実現の欲求」よりも更に上位に、6段目の欲求として「自己超越の欲求」、つまり他者や世界の幸せを求める利他的な欲求を考えていたことは興味深い事実です。

僕も、限定的ではありますけど、自分の個人的な経験から、こうした考えに共感するところがあります。英語で、Bring out one's best.という言い方がありますが、その人の一番素晴らしい資質が発揮されるという意味では、人は誰かの役に立ったときに一番幸せな状態になるのではないでしょうか。自分のことを棚に上げて発言することが許されるならば(笑)、今の社会には、もっとそういうことに目を向ける余裕が必要なのではないかと思います。

(パタゴニア 鎌倉店にてインタビュー)

●インタビューを終えて

パタゴニアの日本支社長としてご活躍の辻井さん、インタビューのために探して下さったという、古いノートを抱えて来て下さいました。「俺たちは太平洋銀行に食べさせてもらってるんだ。だから元本に手を付けちゃいけない」という漁師さんのことば、「ポイントは、経済の仕組みにあるのではなくて、社会システムにあるのだと思います」という指摘など、いろいろなことを感じ、考えさせてもらえる機会となりました。

ファンと売り上げを増やしつつ、「責任ある経済」(レスポンシブル・エコノミー)を主唱し、ダム問題を取り上げる映画を上映するなど、時代の最先端にあるパタゴニアの今後の展開と辻井さんのご活躍、目が離せません!

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「100人に聞く」プロジェクト、半分弱まで進んできました。お一人お一人から、本当にいろいろと考える切り口や気づきをたくさんいただきながら、楽しみながら進めています。頻繁にアップしていますので、ときどきのぞいで見て下さい~!

100人に聞く「経済成長についての7つの質問」

 

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