幸せ経済社会研究所では「経済成長について100人に聞く」プロジェクトを続けています。東洋思想では「経済成長」をどのように考えるのでしょうか?老荘思想研究者で一般社団法人「東洋と西洋の知の融合研究所」理事長、田口佳史さんにうかがいました。生きる上でのヒントも満載の「答え」をお届けします。
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089:田口 佳史さん
老荘思想研究者、一般社団法人「東洋と西洋の知の融合研究所」理事長、株式会社イメージプラン代表取締役社長
「経済成長についての7つの問い」ですが、最も言いたいことは、経済だけが拡大するという発想がものすごく気になる、ということです。
東洋思想の根幹に「陰陽論」というのがあります。陰があれば必ず陽がある。
言ってみれば、一輪車ではなくて二輪車だから安定感があるということです。そういう意味で、「経済成長」と聞いた瞬間に危うさを感じるのはどうしてかと考えてみたら、一輪車だからなのですね。「経済、経済」と、そればかりやっているから駄目なのだということが非常によくわかった。陰陽になっていないのですね。
陰陽論では、拡大・発展が「陽」で、充実・革新が「陰」なんです。「経済成長」と言っているわけだから、拡大発展、つまり「陽」ですね。
そうすると、「陰」に当たるものは何ですかということになる。それは、何と言っても、文化・教養というか、人格・教養の部分です。「どういう心を前提として経済成長はあるべきか」という論議をしていかないといけない。つまり、心の満足がついていない経済成長というのは、糸の切れたタコみたいに、どんどん行ってしまって、それに翻弄されるばかりでゴールがないわけです。
「経済成長」と聞いたとき、どこかで私の何かがゾッとするというのは、一輪車で、何しろ「経済、経済」という方向へ、ということ。人間は、徹すれば徹するほど、そのものオンリーになっていくというところがあるから、世を挙げて「経済成長」となる。しかし、そのとき、「心の満足のほうは一体どうなんですか」ということを、ちゃんと考えていかなければ危うい。
それから「経済」と言ったときに、そこに「資本主義」というのが合体している。「金を出した方」と「出してもらった方」という関係でしかその社会が成り立っていかないとすれば、出した方がもちろん偉そうにするに決まっている。「出してやったんじゃないか」「何で戻ってこないんだ」「もっと戻せ、もっと戻せ」となるのは当たり前のこと。
つまり、「金を戻せ」というような資本主義というものが経済にくっついているかぎり、上から下まで、金銭・物質至上主義に徹しないかぎり、満足させることはできない、回転していかないということだから、ますます金銭・物質になります。
金銭・物質というものを「陽」とすれば、「陰」というのは人格・教養です。金銭・物質も重要だけれども、むしろそれを上回る重要性をもっているのが、たとえば、道理や道義、人道、人間のあり方の問題です。
何をもって満足するかというと、言ってみれば「自分が正しく生きている」ということを、いつも自分で検証して、「正しく生きているな」という安心感です。それが、人間の人生の安心を与えるものであって、金銭・物質なんていうものは、ちっともそれを与えません。
今のように、人格・教養が問われない、誰も言わないという経済成長、あるいは経済社会のあり方は、その発想自体がひずみになっていて、恐ろしい自己破壊の方向へ走っていると、私には思えてなりません。
もっと言えば、「成長」ということは何かが拡大していくということだけど、言い換えたら「欲望の拡大」と言ってもいいんですね。
儒家の思想にしろ、老荘思想にしても、欲望というものを否定していません。仏教は禁欲で、欲を否定している部分もありますが、儒家や老荘思想では否定していない。どうしてかというと、欲というものにも良いところがあるからです。
たとえば、「意欲」。改善していくとか、良くしていくとか、危険な状態をより良くするとか、人間にとっての不便を便利にするとか、危険を安全にするとか、そういうものはすべて意欲ですから、それはいいことです。でも、そのとき、そこも「陰陽」で考えていきます。
したがって、欲望というものを認めれば認めるほど、倫理道徳などの部分をしっかりさせていかなければなりません。
私はよく、「自動車でたとえて、欲望がアクセルだとすれば、今はアクセルだけの自動車に乗っているような社会ですよ」と言います。ブレーキは何かというと、理性です。理性というのは、精神とか意識とかですね。そちらの部分がブレーキになっているわけだから、そちらも等分に重視して、協調してやっていかなければ、ブレーキのない自動車に乗って、どこまで突っ走るかわからないというような状態になってしまいます。
どこまで行ってもこの話は何だかゾッとするところで終わっているというのが、現在の経済成長に対する思いです。ここは大いに禅でいう"喝"を入れて、考え直してもらわないと駄目なところです。
バランス、調和ですね。経済あるいは資本主義、マーケット至上主義など、こちら側にあるものと、人間性とか、本当の意味での人間の心の満足の問題とか、そちら側のものをうまくバランスをとっていくこと。経済と文化という両輪がうまく回っていく、ということです。
金銭・物質主義もいいけど、そのこちら側に人格・教養主義もある。欲望もいいけど、必ずこちら側に、理性とか人格・教養、文化などがきちんと用意されているというのが、バランスのいい調和のとれた社会ということになります。
ということが一番言いたいところです。この話はこれしかないんじゃないかと思っています。
──どうして今、バランスを失って、世界中が片方だけに行ってしまっているんでしょう?
安易だからです。一番易しいことだからです。「自分を律する」とか「克己」とか、そういうことはしんどい話なんです。そういう意味で、みんなが安易に行く方法だからでしょう。
本当は、立派な人間になるということが一番の幸せなのですが、立派な人間になるためにやらなければならない修練といったものは、当然少々の苦痛を伴います。国家の運営者も、痛みを伴うようなことを「どうかやってくれないか」とは言わない。いいことしか言わない。与えることしか言わない。ラクに何かが得られるということしか言わないから、そうなっちゃったんです。
──今「立派な人間になる」と聞いて、そういう言葉すら、あまり聞かなくなったなあと思いました。「金持ちになる」というのはあちこちで聞くし、そういう本もセミナーもたくさんありますけど、「立派な人間になる」ためのセミナーとか本とか、あるんでしょうけど、一般的にあまり聞かないような。
それが古典なんです。古典を読むのはなぜ重要なのか。なぜ私も古典をずっと繰り返し読み講義をしているかというと、今の社会でガサッと欠けている部分だからです。一生懸命調和をとろうとしているんだけど、あまりにも金銭物質至上主義の社会の力のほうが強いから、調和がとりきれない。
企業社会でも、「物事がスムーズに展開する」とか「円滑に利益が最短距離で得られる方法」とか、なるべく手間をかけずに収益が得られる方法が経営のスキルだ、経営の技術だとなっている。しかし、そればかりやっていると、儒家思想でいう「禽獣に等し」で、人間はどんどん猛禽、獣になっていってしまう。孟子の言葉で「飽食暖衣、逸居して教無くんば、禽獣に近し」とありますが、これになっているのです。
これは重大事です。この社会を人間社会として存続させるというのが、私の一大テーマなんです。そうすると、人間性とか、「人間とは何か」とか、「人間とは何を大切にしなきゃいけないか」。さらに言えば、金銭・物質では幸せにならない、ということ。幸せというのはどこにあるかというと、自分が立派な人間になるかどうかなのです。幸せは自分でつくるもので、人から与えられるものじゃない。だから自分が立派な人間になるんだよ、と。
でも、立派な人間になるとどうして幸せになるんですか、と思うかもしれません。どこへ行っても、「よく来ていただいた。あなたにご相談しようと思っていたんですよ。こんな立派な人間に来ていただいて、ありがたい」とみんなが言ってくれる人間になるか、どこへ行っても「何で来たんだよ。来ないでよ」という人間になるか。
要するに、日常の生活自体が愉快になるか、不愉快になるかです。そこがなっていないのに、「金はうなるほどある」「物質は嫌になるほどある」「自分が投資している会社はどんどん拡大している」と言ったって、まったく満足感がないと思う。
「あんな嫌なやつはいない」「あんな下品なやつはいない」「あんな欠点だらけの人間はいない」とどこに行ったって歓迎されない、「来ないでくれ」と言われるとしたら? 「それで幸せか?」と言うと、みんなそこで初めて「そうですね。金とか社会的ポジションでは幸せはないんですね」と言う。だから立派な人間になるんだよ、幸せになる方法はそれしかないんだよ、と。
──先生の東洋思想の講義を受けさせていただいていたときから、先生は「愉快な人生」ということを繰り返しおっしゃっていました。「愉快な人生」というのは、お金が多いとか少ないとか、どんどんお給料が上がるとかは、関係ないのですよね。
アウトサイドのものは何ひとつ、幸せの決定的な材料にはならない、ということです。何であっても、インサイドの、自分の心がどう思うか、です。自分の心が、どういうふうにとらえて、どういうふうに見て、どういうふうに満足を感じるか、感謝を感じるか。「ありがたいな」と感じられることが基本で、すべてインサイドにあるのです。ところが今は、陰陽で言えば、あまりにも「アウトサイド、アウトサイド」と言っているわけです。
──たとえば、「お給料はたくさんあったほうがいい。どうしても隣の人と比べちゃう。だけど、先生がおっしゃるように、インサイドで満たされるんだったら、本当はそちらへ行きたい」という人がいたとしたら、どのようにシフトできるのでしょうか?
幸いなことに、「アウトサイドは駄目だ、今日から監獄みたいな所に入って、自己修養に励め」と言っているわけではありません。そこは、すごくいいところです。私だって欲はあるし、金もある程度は欲しいと思っている。うまい酒も飲みたいし。
だからバランスが重要。そういう欲望に歯止めがかかるかという、まさにブレーキを持っているかどうかが幸せのポイントです。ブレーキを外した瞬間に、警察のご厄介になったりするという不愉快なことになるんだけど、ブレーキを持っているかぎりは、自己の中で済ませることができるから、大事にならないわけです。それが「七十にして欲に従えども矩を越えず」という、『論語』の有名な言葉にもなるし。私の座右の銘の「足るを知る者は富む」にもなるわけです。
──そのブレーキを「今は弱いけど鍛えていきたい」と思うときは、先生に教わった「克己」や「慎独」ということを少しずつ実践することでしょうか?
そう。古典ですね。題名だけ残っていて、内容がもうすでにありませんという書物は嫌になるほどある。国会図書館に問い合わせて「この本読みたいんだけど」と言っても、題名だけで「もうありません」というものがいっぱいあります。
人間というのは、「当時評判だったから」本を取っておくという選択はしません。唯一、「自分の子どもに読ませたいかどうか」、それだけです。「これを読ませたら、自分の子どもも何とかしっかりした人間になるだろう、いい人間になるだろう」と、それしか思っていない。
それで残っているのが古典なのです。一行一行が、人間の厳しい歴史的なふるいにかけられて、それで生き残ってきたものなのです。古文や漢文だから読みにくいということはあるけど、そこは誰かについて読んでいくと、「ああ、そうだな」と、感心しきりになってくるわけです。
一時でもそうなると、次、また何かのときに、2カ月ぶりくらいに、「あそこへ行ってみよう」と行く。古典は裏切らない。そうすると、2カ月が1カ月、3週間が2週間になって、いつも見るというようになっていきます。
──お話を伺いながら、『論語』や『老子』などの古典の手ほどきをしていただいていたときのことを思い出しました。「魂が喜ぶ」という感じがしていたんです。月1回でも先生の講義に帰ってくると、魂が喜ぶという感じがしていたんですよね。
古典を講義するということは何かというと、魂と魂の対話です。そういう観点がこっちにないと、ただ文章を読んでいるだけになる。むしろ文章というのは仲介の役割であって、その文章に込められた心とか魂を伝えることが基本的です。
そうすると、金とか財産とか名誉とかいうのでは得られない、本当の意味での、しみじみとした魂の満足、心の満足があるんです。そういう毎日を送るということが「愉快な人生」です。
──経済成長の話に戻りますが、さっきおっしゃったように、考えるとゾッとするような状況になってきている。この先を考えると、3つの可能性があると思っているのですが、先生はどういうふうにご覧になっているかお聞きしたいと思います。
1つは、人間は安易なほうに流れるものなので、人格・教養も忘れ、一度失うと取り戻すことが難しくなり、どんどん悪い方向に行って、人間らしさも人間性も失っていってしまうという最悪のパターンですね。
もう1つは、陰陽を考えれば、陽に振れれば必ず陰に戻ってくる。なので、今「経済成長、経済成長」と言っているけど、天の采配で陰に戻る時期が来て、またバランスがとれるでしょうというパターンです。
もう1つは、先生が教えてくださったなかで、プラス/マイナスを合わせて新しいものをつくり出すという話がすごく印象的でした。「経済成長、経済成長」か、「人格・教養も大事」か、どちらかに揺れるんじゃなくて、両方を合わせて何かが生まれるような時代が来るのか。3つの可能性があるのかなと考えていたのですが。
それです。僕はこの世で何をしなければいけないかというと、何と言ったって、今言った「陰陽のバランスをとらないといけない」というのが第一なのです。現在をより良くするために、まったく抜け落ちている片方を付け足してあげることをまずやらなきゃいけない。
その次は何かというと、古い言葉で言えば「アウフヘーベン」ですね。その矛盾を乗り越えるということがすごく重要で、そこに人間が本当に求めなければいけないテーマがあるわけです。
だから、経済成長がテーマじゃない。「経済成長」と「文化・人格・教養」、「金銭・物質」と「人格・教養」というような矛盾があって、「どっちを取るの?」とやっているんだけど、そうじゃない。両方取るんだよ、ということです。両方取るにはどうしたらいいかというと、裏側をちゃんと見ると、両方が望んでいる共通していることがあるのです。
それは、西田幾多郎なんかが言っている「絶対矛盾的自己同一」ですね。絶対的矛盾は、同一するものがすごく多いということ。「結局同じことを言っているんだ」というところへ行かないと駄目なんです。
それはどこにあるのかというと、「本当の満足、人間の心の満足を引っ張り出すような経済成長」ですね。産業のあり方でいえば、「心の満足のための産業」というものが、もっと隆盛に起こっていくということが重要です。
その産業は何かというと、私は「機会産業」だと思っています。Opportunityです。「人間の人生というのはチャンスにあふれているんだよ」と。ところが、チャンスにあふれていないと思っている人が多い。「チャンスにあふれているよ、こんなチャンスもある、あんなチャンスもある」と、チャンスをたくさんつくってくれるような産業、チャンスと出会わせてくれるような産業です。生まれた瞬間から死んだ後くらいまで、全部チャンスだと、そう考えると、嫌になるほど産業化してもらいたいし、したほうがいいものがたくさん出てきますよね。
教育基本法を読んでもらうと、最初の章、第1章教育の目的及び理念の第1条、第3条に「人格」という言葉が出てくるんです。基本法の最初に出てくる言葉が「人格」。しかし、「人格とはどういうことですか」と行政の責任者に聞いてみても、大した答えは出てこない。それは問題じゃないか、と。そこをしっかりさせることがないまま「教育基本法にのっとって」と言う。
教育委員会などはみんな、何か「問題じゃないか」と言うと、「いや、教育基本法にのっとりまして」と言っている割には、一番大切なところが明確でない。まずそこのところからやろう、と。「せっかく人格・教養と言っているんだったら、そこを明確にしてくれるとありがたい」と、行政のほうが言ってきて、議員立法でやろうという動きになっています。
私流に言えば、仁・義・礼・智・信。この5つが人格ですけど、もっと新しく言おうと。人格教育推進議員連盟というところで、立法しようとなっているわけです。
今は、ご承知の通り、教育の現場では「道徳」というもので七転八倒の苦しみをしているわけです。それこそ矛盾に満ちている。「道徳」って、小さいところでやっているからいけないので、「人間のあり方」とか「基本」へ戻らないと駄目だと。これから出ていく道徳に関する法案のなかに、「人格・教養」、われわれが言っている「規範形成」といったものを入れていきましょうというふうになってきたんです。
──教育といっても、「人間」の前に「労働者」を育てるのが教育になっていたりしますものね。そういう教育をしているから、会社に入ってうつになったり辞めたり。幸せじゃない。会社も幸せじゃないですよね。
思い出しましたが、戦後、会社に入って何を要求されたのかというと、「合理効率性」ということばかりでした。「おまえ、何、効率悪いことやっているんだ」って。僕はものすごく不器用な人間で、普通の人が30分で終わるのを3時間ぐらいかかっていたから、「おまえ、効率が悪くてしょうがない」と言われ続けたんですね。僕は映画会社に入ったのですが、現場はそうなんですね。効率的に早く終わらせて、次に行かなきゃいけないって。
そういう体験があるから、その気になって考えてみると、合理効率性を要求してはいけないというジャンルが、この世の中にたくさんあることがわかったんです。それが医療の分野であり、教育の分野です。今はそういう分野まで「合理効率性」です。「1人の患者に3分」とかやっているから駄目なので、そこを「この世界では合理効率性を廃します」という仕組みにしないと駄目です。
──「効率、効率」と言うけど、「効率的に人を愛する」とか、「効率的に子育てする」って、あり得ないですよね。
あり得ない。
教育でも、教師受難の時代です。私が育てた教師なども、寝るのは平均5時間とか言っている。寝る暇がないんです。若いからまだ成り立っているけど、そのしわ寄せはどこかにきている。病院だと看護師さんにくるとか、弱いところにきちゃう。そこを救ってあげないと、この社会は良くならない。
──海外の教育の法律を調べてみようかな。人格・教養みたいなのを、どう位置づけてやっているのかなと思って。
1991年の第26回ユネスコ総会で設置を決議されて、1993年に発足された「21世紀教育国際委員会」が、約3年に渡って15カ国からの政府関係者や、教育問題に関する専門家による検討の結果、1996年にユネスコに提出された21世紀の教育及び学習を提言する報告書の「学習:秘められた宝(Learning:The Treasure within)」は、人類の発展の為の教育の在り方を提言しているものです。
知ることを学ぶ(learning to know)
為すことを学ぶ(learning to do)
共に生きることを学ぶ(learning to live together)
人間として生きることを学ぶ(learning to be)です。
その中のlearning to beが「人格教養」のことです。これを日本の学校教育にも加えたいと、いま一生懸命に運動をしているところです。
──Learning to beと言うと、すごくわかりやすいですね。「人格教育」と言うと、その言葉から違うイメージをもつ人も、残念ながらいますが、Learning to beの教育ができるようになるといいですね。
そう。
──去年の9月から大学で教え始めたので、少なくとも自分の学生にはそういうことを意識して教えていこうと思います。ありがとうございました。
<インタビューを終えて>
東洋思想の先生である田口先生にインタビューを受けていただくことができ、とてもうれしく思いました。バランスをとることが大事、という陰陽の考え方からすると、現在の状況はかなり片方に偏りすぎているのでしょう。そのバランスの乱れを何とかしようと、田口先生は教育や企業経営者などへの働きかけをずっと続けていらっしゃいます。
「人格・教養」というと、古くさいイメージを持つ方もいるかも知れませんが、「何をもって満足するかというと、言ってみれば「自分が正しく生きている」ということを、いつも自分で検証して、「正しく生きているな」という安心感です。それが、人間の人生の安心を与えるものであって、金銭・物質なんていうものは、ちっともそれを与えません」とおっしゃっているように、それは人間の人生の安心・満足・幸せを与えてくれる大事なものであり、経済成長ばかりに偏っている現在の社会では、バランスを取り戻す意味でも重要な鍵を握っているのだと改めて思いました。