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石巻で聞き書きを続けていらっしゃる千葉直美さんから届けていただいた「女性たちからのメッセージ」をお伝えします。
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10)Jさん (60代) 2016年4月9日
3.11の被災で飼い主と離ればなれになった犬がたくさん、ペットショップに持ち込まれました。そのペットショップで働く知人が、犬二匹を我が家へ連れてきました。我が家といっても、家はすべて流され、アパートに住んでいたのですけれど。知り合いは、私の返事も聞かず、その犬二匹をおいて帰っていきました。私ははじめどうしようかと悩みましたが、そのままずっと自宅で飼っています。今では、その犬たちは私の生きがいです。
11)Kさん (30代) 2016年2月18日、5月11日、12日、6月2日
その日は海辺の町の保育所で働いていました。お昼寝の時間でした。3時に子供達を起こす予定でした。長く揺れている間、早く止まって!と胸の中で叫んでいました。先生たちは誰も慌てず落ち着いていました。「大丈夫、そのまま、待っててね。」と子供達に言いました。
長い揺れでした。建物の窓ガラスは壊れて床に落ちていました。子供達は素直に言うことを聞き、泣く子もいなかったです。子供達との信頼関係があったと思います。大人だけだったら、逃げなかったかも。子供達にジャンパーを着せ、靴を履かせ庭に集合しました。冷静に整列したのです。一列です。輪を乱さず、パニックにもなっていません。
迎えに来た保護者に50人ほど引き渡し、他の子供達50人ほどを高台へ避難させました。地元採用の先生が多かったので、この大きな地震の後は津波がくると言い、またいつもの避難訓練先ではなく、山へ向かう違う道を知っていて、そこを通って逃げました。地元の人しか知らないルートです。長い石段、坂道。
街並みが津波の濁流に飲み込まれ、建物が壊れていく音が聞こえました。「うそでしょ?」。保育所はすべて全壊、跡形もありません。あのまま庭にいたら?逃げるのが遅かったら?いつもの避難訓練先へ行っていたら、死んでいました。とっさの判断です。
チリ地震があって、津波がここまできたという印があった所は完全に飲み込まれていました。油断があったかもしれません。ここまではこないだろうと。子供がいたから大人も逃げたのです。子供達に助けられたと思います。迎えに来た保護者にありがとうと言われましたが、こちらこそありがとうございますと言いました。
避難した高台の体育館はガラスが割れていて入れず、運動場の倉庫に身を寄せました。この運動場には1,000人ぐらい避難してきていたのではないでしょうか。食料がいくらかあっても、不平等になるので分けてもらえませんでした。子供たちは、暗くて汚いトイレに行きたがらず、おもらしをしました。何も持たずに逃げたので、新聞紙や袋でズボンを作って、履かせました。
大人だけだったら逃げなかったかも。子供達の命が助かって、使命が果たせた気がする。
道が完全に寸断されました。自宅に私も5日間帰れませんでした。義理の母親が、私の当時2歳の息子の世話をしてくれていました。心配でした。生死の境の日々で、誰に会っても涙が出ました。命があっただけでも嬉しい。3日目に道なき道を方向だけを頼りに物資を探しに行きました。自衛隊はまず道を作るんですね。
忘れない。反省を今後に生かしたいし、なかったことになるのが怖い。震災後、しばらくこの経験を話せなかったです。生活が精一杯で、思い出したくなかったのです。思い出したくないことを忘れようとする。今だから、ぽつりぽつりと思い出してこうしてしゃべれます。
いろんな経験を生かして、訓練は大切です。想定はきりがないけれど。応用力を備え、臨機応変な行動が大切ではないでしょうか。身内を亡くした人は泣き続けていて、泣いても亡くなった人は喜ばないという心の切り替えは、自分はできるでしょうか。ご遺族になんと声をかけていいのか。ふれていいのか、相手はどう思うか心配です。
今の私にとって、家族が一番で優先します。14年間も保育士をしていたけれど、忙しく、朝も早くて一度の人生これでいいのかなぁと、小さい息子との一緒の時間を大切にしたい。保育士は夢だったのですが、震災後、退職しました。仕事をしていてはできないことを今、しています。車や物を失ったけれどなんとかなります。明るく生きよう。落ち込むけど。楽しく無理せず、助かった命なので。
12)Lさん(50代) 2016年3月25日
今を生きるのが精一杯。日々、考えてもしょうがないんです。一日一日を大切に精一杯、しっかり生きることではないでしょうか。とらわれないで。1人ひとりの人生なので、それぞれの終わり方があると思います。震災で犠牲になった人達に"かわいそう"は、上から目線ではありませんか?魂としては終わりではないですから。そう信じたい。特別視しない方がいいのではないでしょうか?命がこの世から消えるのは痛ましいことですが、いつかは離れなくてはいけないんです。必ずみんな迎える死。長いか短いかの違い。ご遺族の方々のことを考えると口に出せないけれど、あえて言葉にすれば、人生は30cmの人間のものさしで測れないと思います。命の尊さを言うなら、命について私はわかりませんが、あの日、逝ってしまった人達は、今、だらだら生きている人より尊い気がします。かわいそうと思うのは失礼。
人間は自然の一部。津波に負けまいとして防潮堤を作っているけれど、自然を測ろうとしない方がいいと思います。人間vs自然? わからないものを楽しんだ方がいいのではありませんか。人は忘れるんです。時間が解決してくれるから、時間にまかせて忘れてもいいと思います。5年たてば忘れてもいいのでは? 私にとっては謙虚に、ちっぽけな自分を生きるのが精一杯できることです。
健康のため、体操、ダンス エアロビクスをしています。とても楽しいんです。通っているジムで、腰にくびれのない太った中年の女性達がタイトなタイツやビキニを着て正々堂々とベリーダンスを踊っている姿、いいなぁと感動します。一歩、何かを乗り越えているようで。振り返ったときにいい人生だったと思いたい。
現在、私は福祉の仕事をしていて、仕事の内容は難しくて大変なんだけど、スタッフの間で笑いがたえないの。明るくてよい職場。震災後、苦しい生活を余儀なくされている人達に、感情を入れず客観視してアドバイスしているスタッフです。それぞれの、その人の生き方を尊重することって大事ですよね。
3.11で亡くなった人達も、その人の人生を生きたんです。行方不明の人を、探さないこともいいのではないでしょうか。ちゃんと空へ行ったと信じています。困っている人を助けたい支援団体がたくさん来たけど、自己満足で支援したいだけのような気たします。 被災者の自立を促していますか?どれだけやったら助けられるの? 物質だけの支援って、人を幸せにするの?物があっても不幸な人がいます。心を見ることって必要ですよね。金持ちもむなしい。病んでいます。
まず自分が幸せになり身近な人に分けた方がいいです。幸せのオーラを周りに振りまくのが肝心。人間の測りや基準でなくて。
13)Mさん(70代) 2016年5月2日
2011年5月8日から、菓子店を再開しました。家が残って布団があって寝られたから幸せ。3.11に義理の弟が津波で電柱につかまっていたんだけど、泳いで低体温で死亡しました。夫は毎日、安置所を探しました。ジャンパーでわかって、4月19日に軒下で見つかりました。3.11の日は、自分は仙台の病院に圧迫骨折で入院中でした。義理の弟が朝に電話をくれて四十九日の法事に行けなくてごめんね、さみしかったというのが最後。きちんと送れてよかった。入院中で、生かされたから幸せ、助けられたのね。
私は4月23日に退院。元気のもとはお客様と話すこと。笑って話すこと。1人でいたり、こもっていてはだめだと思います。生かされたんです。泣いて発散した方がいい。がまんしている知人に泣けと言ったの。私は生まれつき明るくて、悩まない性格です。若い時は悩んで寝れない夜もあったけれど、悩んでもしかたなく次の日悩めばいいと思うようになりました。くよくよするけど、跳ね返して気持を切り替えるの。入退院を繰り返したので、病気の体験談をたくさん言えますよ。命あって生き残った女性達は強いね。
早く店を再開して、周りに悪いなぁと思いました。周りがまだ再開していないから。店に水が入らなかったので早く再開できました。再開した私に、知人は最初は「よかった」と言ってくれたけど、でも内心嫉妬しているでしょう。
私は23歳で床屋を開きました。手に職をつけて自分の収入を得るためです。未亡人になっても子供を育てられるようにと母が助言してくれたからです。26歳で結婚。27歳で第一子。29歳で第二子の誕生の時、夫の実家が菓子店を開きました。4人の子供を持ちました。夫の友達が菓子を買ってくれたので、友達って大切だなぁと思いました。クリスマスケーキなど買ってもらい助けられました。
父は満州で、36歳で結核で亡くなり、私の母親は32歳で未亡人となりました。その時、自分は一歳半でした。4人の子供を母は一人で育ててくれました。自分は一番下です。母は9人兄弟の長女で、感情が激しく喜怒哀楽がはっきりしていました。母は、焼きそば屋や茶巾屋で生計をたてました。母は再婚もしませんでした。私は母を困らせたくないと思っていました。
私は22歳の時、呉服屋で半年働いていましたが、上司はいつもぶすぶす笑わない人でした。その人に、「いつもにやにやしてバカ!」と言われたので、「何が面白くないの?ぶすぶすして!」とけんかになりましたが、ずっとその後、親友になったんです。
仲人を頼まれた時があって、太っていたので着物を着ると、お酒を客に注げないので、ダイエットを決心して、70キロから11月の結婚式までかなりやせたことがあります。 一万歩を歩き、掃除のバイト(一日2時間)のために自転車で通勤しました。
50歳で夫が倒れたとき、菓子屋をやめて、女性向けの顔そりのお店と床屋を再開しようかと思いました。化粧やマッサージもして。こつこつためて開いた、この菓子屋は借金。大型チェーンや付近にケー屋ができて売り上げが下がりました。
震災時、700個のケーキを皆さんに差し上げました。難しい客には、サービスすると仲良くなるんです。子供の時から笑わせるのが好きです。人を嫌いになるのは簡単だけど、嫌いな感情を維持するのは大変だから、最初から嫌いにならない方がいいよ。
夫に仕事以外の人生がある余生を味わってほしい。これまで二人で出かけたこともないの。自分は色鉛筆で、絵を描きたいです。いつ死んでもいいの、怖くない。生かされた命だから。謙虚に何も知らないふりをしてると、みんなが教えてくれます。知ってるふりをすると教えてくれません。夫の兄弟、親戚の悪口はいわない。夫が苦しくなるから。