日本には昔から、持続可能性やレジリエンスにとっての素晴らしい取り組みがいろいろあります。そういったものを内外に伝えるのも大事な自分の役割だと思っています。数ヶ月まえに、山梨県に取材に行き、昔の人々の知恵の塊のような、治水システムについて教えてもらいました。ぜひ世界にも伝えたい!とJFSのニュースレター記事にして発信したものをご紹介しましょう。
写真や図があるので、ぜひ以下のJFSのサイトをご覧いただければと思います。
JFS ニュースレター No.164 (2016年4月号)
~~~~~~~~~~~~~ここから引用~~~~~~~~~~~~~~~~~
過去に学ぶ~甲府盆地の治水システム
気候変動の影響の顕在化か、世界各地で大雨や洪水が増えています。日本でも、以前には考えられなかったほど、短時間に大量の雨が降るようになり、河川の氾濫や洪水、土砂崩れなどの被害が出ています。温暖化をこれ以上進めないように温室効果ガスの排出を急速に減らすことが肝要である一方、今後数十年にわたって、どうしても生じてしまう温暖化の影響に対する備えをしておくことの重要性も増しています。
国土が狭く、急峻な山地の多い日本の河川は急流が多く、明治時代に河川技術者として日本に招かれたオランダ人が、富山県を流れる常願寺川を見て「これは川ではない、滝だ」と言ったと伝えられるほど。世界でも多雨地帯であるモンスーンアジアに位置する日本には、世界平均の約2倍にあたる年平均1,718ミリメートルの降水量があります。また、東京でいえば最多雨月の9月の降雨量は最少雨月の12月の5倍であるように、梅雨期と台風期に集中的に大雨が降ります。
●水害に悩まされた甲府盆地
このような状況から、日本では昔から治水が非常に重要でした。15世紀末から16世紀末にかけての戦国時代の武将たちにとっても、戦場での戦いだけではなく、自分の国の国力を高めるためにも、領地の安定を図るためにも、治水対策は重要な事業でした。なかでも、甲斐の国(山梨県)は四方を高山に囲まれた扇状地に位置するという地形上の特質から、治水が国を治める者の大きな課題だったのです。
甲府盆地は、御勅使川、釜無川、笛吹川の造った複合扇状地です。扇状地を流れる河川は、自然の状態では扇状地面を自由に流れますから、釜無川や御勅使川の合流する地域は、自然のままでは洪水の氾濫による水害の危険が非常に高くなります。1542年に釜無川と御勅使川が大氾濫したことが記録に残っています。
この御勅使川、釜無川の治水事業に着手したのは戦国武将・武田信玄だと言われます。江戸時代後期にまとめられた地誌『甲斐国志』(1814)には、信玄が前御勅使川の流れを北に付け替え、高岩と呼ばれる崖の手前で釜無川と合流させ、さらに「信玄堤」を築く治水工事が記述されています。しかし、信玄が施工したことがわかっているのは信玄堤だけです。その他は戦国時代の資料がないため、各治水施設の構築時期や役割については、再調査が行われています。
信玄堤は、永禄3年(1560)前後に着工されたと言われる堤防で、甲府盆地中央方面へ向かう川の流路をふさぎ、下流の村々を守る役割を担うもので、400年以上たった現在でも治水機能を果たし続けています。高い堤防を築くコンクリートなどなかった時代に、当時の人々はどのように悪名高い暴れ川を治めたのでしょうか? 私たちはそこから何を学ぶことができるでしょうか? 山梨県に今も残る治水施設の取材に行ってきました。
●甲府盆地の治水システム
甲府盆地の治水システムの大きな特徴であり、私たちが学ぶべきことの1つめは、「1つの治水施設ですべてを抑えようとするのではなく、流域全体を使って対策を考える」ということです。その主なものを紹介しましょう。
まず、南アルプスの山あいから甲府盆地に向かって流れる御勅使川の対策に取り組みました。甲府盆地に流れ込むあたりに、「将棋頭」と呼ばれる、将棋の駒の形をした石積みを作り、川の流れを変えたのです。こうすることで、御勅使川がまっすぐに甲府盆地に流れ込むのに比べて川の勢いをそらし、増水時にも氾濫の危険を減らすことができます。
流れを変えた御勅使川が上流で釜無川に流れ込むところで待っているのが、「高岩」と呼ばれる大きな崖です。この大きな岩に川の流れをぶつけることで、水の勢いが弱まります。
そして、御勅使川が合流して釜無川となって流れる川に信玄堤を築き、洪水が中心地へ流れ込むのを防ぎました。
図1:甲府盆地の治水システム
レジリエンスを高める「決壊を前提とする堤防」通常の河川の堤防はずっと連続して続いています。切れているところがあれば、そこから水が流れ出してしまう恐れがありますから、切れ目なく堤防を作るのが現在のやり方です。ところが信玄堤は、「霞堤」と呼ばれる不連続な構造を持つ堤防になっています。
図2:霞堤の図 A-通常時,B-洪水時,C-洪水後
霞堤は、イラストが示すように、間が開いている、変わった堤防です。完全な遮断を敢えてしないのです。大雨で川が氾濫すると、増量した水をわざと越流させ、霞堤間に導いて、滞留させます。そうすることで、洪水のエネルギーをパワーダウンさせるのです。霞堤はエネルギーを喪失した洪水流を速やかに本流に戻すという機能を担っています。平地部には霞堤を2重3重に築き、氾濫したとしても、その水を釜無川に戻しやすくしたのでした。
がっちりと切れ目なく築くほうが強固な対策に見えるかも知れませんが、この場合(東日本大震災でもそうだったように)、いったん決壊してしまうと、あっという間にすさまじい氾濫と洪水が起きてしまいます。一見、脆そうに見える霞堤のほうが、いざというときの被害が少なくてすむのです。洪水を完ぺきに封じ込めることを目指すのではなく、洪水が起こることを前提に、流域全体の力を使って、水の流れを制御しているこのしくみは、「しなやかに強い」レジリエンスの好例ではないかと思います。
●水の勢いを制する「聖牛」
また、「聖牛」と呼ばれる、水の勢いを弱め堤防を守る工作物を作り、水流の激しい箇所に置きました。これは伝統的な水制工法の一つで、この地域が発祥の地です。三角形の基の部分が牛の角のようにみえることから名付けられました。
木を三角錐に組んだだけのシンプルな構造で、竹蛇籠と呼ばれる、竹で編んだ長い籠に石を入れて、重しとします。面白いのは、川の中に入れてから、このシンプルな構造物に上流からの流木や枝、枯れ葉などがどんどん蓄積し、"育っていく"ことです。私も川の中にある聖牛に突き刺さっている枝を引き抜こうとしたのですが、さまざまな角度からいろいろなものが突き刺さって絡み合っているため、びくともしません。最初からできあがったものではなく、自然の力で育っていく水制工法なのですね。
また、この聖牛の素晴らしいところは、通常の増水時には水の勢いを制するために役立ちますが、異常な増水時には自壊するようになっています。過重を受けたままその場を維持しようとすると、「洗掘り」(激しい川の流れによって川床や堤防の基盤が削り取られる状態)を起こすなど、周辺の崩壊を促進してしまうのですが、聖牛は自壊することで、そういった状況を避けることができるのです。「無理をして抗わない」という、何とも考えられた構造物だと感心しました。
写真:聖牛
現在でも、川岸のあちこちに聖牛が並んでおり、定期的に聖牛を作り直す作業も行われています。
●「万力林」
さらに、笛吹川が造る扇状地の扇頂部に「万力林」があります。これは松を主とした水害防備林と霞堤を組み合わせた治水施設です。洪水時に笛吹川が氾濫しても、ここに密生している松の大木が流木や土砂を防ぐことができます。そして、氾濫した水を霞堤の開口部から笛吹川の河道に戻すのです。甲府盆地の中でも人口が集中している地域の上流にこの万力林を設けることで、もしもの際の被害を小さくしようとしたのです。現在、万力林は河川公園として、多くの人々の憩いの場ともなっています。このように何重にも手を打っていたのですね。
●御幸祭り
825年に釜無川と御勅使川の大洪水によって甲斐の国が大きな被害を受けたあと、竜王に水防の神を祀る社殿が建立されました。武田信玄は、これを治水の祭りとして、領民に水防意識の啓蒙を図りました。「御幸祭り」は神輿がかけ声勇ましく、信玄堤を足で踏み固める動作で練り歩き、釜無川にある神社につくと、川除の儀式が行われ治水を祈ります。この祭りは現在でも毎年4月15日に行われています。
●最後に
甲府盆地の治水の取り組みは、紹介した主な施設構築をはじめとして、土砂の流下災害を防ぐための河岸付近への造林、水防の重要性を領民に啓発するための祭り、霞堤を守る地域の領民への租税免除などの総合力だといえるでしょう。
飛行機もヘリコプターもなかった時代に、3つの川の流域を全体として把握して、さまざまな施設やくふうを多重に連続していくことで治水をするという、スケールの大きな、そして有効なシステムを構築したことに驚きます。また、今の言葉で言えば、ハードもソフト(祭りや租税免除など)もあわせて総合力での治水対策を施したことも素晴らしいと思います。
そして何よりも、人間は自然の力を完ぺきに抑え込めるはずだというおごりを持たず、堤防は決壊するものとして何重にも手を打つ考え方や自然の力で育っていく構造物など、現在の私たちにも学ぶべきことが多々あるのではないでしょうか。