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幸せ経済社会研究所の活動の1つは、「現在の、機能しなくなった経済・経済学・経済理論の代わりになるものを模索する」ことです。読書会での勉強や、専門家へのインタビューなどを通じて、いろいろとリサーチし、学び、考えています。
今年の春に、シューマッハ・カレッジを訪問し、 Economics in Transition を担当しているジョナサン・ドーソンさんにインタビューをさせてもらい、書かれた記事を共有いただきました。本当に洞察に富む、また勇気づけられる内容です。ぜひご一読いただければと思います。
~~~~~~~~~~~~~~ここから引用~~~~~~~~~~~~~~~~~~
How do we redesign a new economic theory framed by ecological systems?
生態系を踏まえた新たな経済理論をどのように再設計するか
ジョナサン・ドーソン
今日私たちが「経済学」と呼んでいるものは、もはや破綻している。説明もできず、予測も当たらず、保護機能も果たせないものは総取替えしなければならない。
というより、アラン・グリーンスパンの言葉を借りて言えば、これは根本的に「欠陥品」なのだ。しかし、あらゆるパラダイムシフトの源となるものをうまく促進させるには、そのヒントをどこに求めたらいいだろうか。
興味深いことに、経済学以外のあらゆる分野から、非常に洞察力に富んだ驚くほど革新的なアイデアが出てきている。
生態学から得られる洞察は、「経済とは、複雑で適応型のシステムであると捉えると最も分かりやすい」というものだ。つまり、経済というものは、数学を使った計算式によって制御される機械というよりも、むしろ、丹精込めて手入れされるべき庭に近いのだ。
人類学から学べるのは、「経済と社会は不可分であること、さらに、市場や通貨は比較的新しく出現したもので、協力、贈与、互助といったより長い歴史の上に重ねられた薄っぺらな化粧板ほどの存在だ」ということである。
心理学と神経科学によって明らかになったこともある。古典派経済学が一次元的に捉えた人間像は、人は利己的、個人的な欲のみによって行動しその私欲が奇跡的に見えざる手を導くというものだが、私たち人間はそれよりも複雑で多面性を持つ存在なのである。
ロリー・サザーランド(広告業界の権威)は最近発行されたワイアード誌でこう書いている。「実際には、人間というものはもっとずっと、心配性で、道徳的に考え、集団意識を持ち、恩に報い、イメージを重視し、ストーリーを作る、ゲーム理論家なのだ」
要するに、古典派経済学を基礎づける創成神話と仮定は、底の浅い、間違っていて役に立たないもので、経済学という分野がかたちづくられた時代の産物なのだ。また、経済学には"疑う余地のない"自然科学と同じ科学的な力があると主張したい経済学の創始者たちの欲望から生まれたものだということが明白なのだ。
それならば、私たちがなすべきことは何か。自分たちがいかなる種であるかの今日的な理解に基づき、我が家と呼ばれるこの美しく青い惑星の生態系の限界を踏まえた新しい経済理論を築くことだ。
というより、私たちが限られた資源のなかでうまく暮らしていくための経済モデル、経済規範、経済行動を実際に構築するには、そういう理論を考え出し、表現することがまず重要になる。
本学では、研究の前提として自然から学ぶことを中心に置いている。どういうことかというと、単に経済の仕組みが生態系のさまざまな機能になぞらえると理解しやすいということだけではなく、そもそも生態系と経済は、どちらのシステムも同じタイプの複雑で適応性のあるシステムなのだ、ということである。
〇効率とレジリエンスの間のトレードオフ
このことによって、わくわくするような新しい調査・探究領域が多様な分野で生まれる。ここではその中の3点を紹介したい。
一つ目は、持続可能なシステムが最もうまく機能するポイントに関するものだ。ベルナルド・リエターが率いる研究チームは、生態系がレジリエンスを効率と引き換えることを発見した。自らのレジリエンスを維持するために、効率(生産量という点で)からいえば得られる可能性がある大きな利益を犠牲にしている。
例えば、生物多様性の高い森を考えてみよう。ここには、多くの小さくて弱い、あるいは"価値のない"種が存在している。しかし、そのことによって森は有害生物の大量発生やその他の打撃から身を守ることができるのだ。
リエターの研究チームは、この発見を世界の通貨制度の構図に当てはめ、今日、国の通貨が単一であることは、かつてないほどの効率性(ボタン一つで世界中に投資できる能力)をもたらしたが、それと引き換えに、群衆行動やシステムの崩壊に対して脆弱であるという点では大きな犠牲を払ってきたと主張した。そして、将来的に持続可能な経済を最大限追求するなら、補完通貨の種類をもっと多様化しなければならないと訴えている。
私たちの経済は過度に効率化され、必要なものを必要なときに必要な分しか生産せず(ジャスト・イン・タイム)、非常にレジリエンスが低い。問題は、そうした経済のほかの部分でこの見識をどのように当てはめるのかということではないだろうか?
生態系にヒントを得た斬新な思考の二つ目の領域は、新たに登場している分散型の企業や組織の形態にある。情報技術力の向上によって、全く新しいビジネスのやり方や社会の組織化の方法が生まれてきている。その強みは規模の経済ではなく、互助・共生の経済にある。
例えば、P2P融資(訳注:ウェブ上で個人間の融資を仲介するサービス)は、銀行の競争相手として台頭し始めている。また、地域内で分散している食料生産者たちは、フード・ハブ(訳注:地元の生産者と卸売・小売業をつなぐビジネス)を介して組織化し、スーパーマーケットに代わる存在になりつつある。さらに、社会福祉サービスの企画や提供に、タイム・バンク(訳注:奉仕活動を行った時間を貯蓄し、必要なときにその時間内の奉仕活動を受けられるしくみ)や市民参画を取り入れることによって、社会保障制度の負担が軽減され始めている。
以上のようなあらゆる発展は、システムの隅々まで意思決定権能を行き渡らせ、組織形態がより民主的で価値観に基づいているだけでなく、より低炭素型になる可能性をもたらす。菌糸体はこうした可能性をさらによく理解し実現するためのヒントを与えてくれるが、その菌糸体のネットワークから私たちは何を学ぶことができるだろうか?
活発に探究されている三つ目の領域は、言葉の脱構築および再構築の分野にある。この領域は、「斬新な考え方は、機械論と還元主義のイデオロギーによって抑制されている」という認識から生まれている。そのイデオロギーは符号化され、まさに私たちが使っている言葉の中に入り込んでいる。私たちが話すことは世界のあらゆる物事の意味をつくり出しているが、そうした話の中に入り込んでいるのだ。
国際援助の分野でほんの一例を挙げると、「第一世界・第三世界」、「貧困」、「援助」といった概念が議論の枠組みと道筋を決めている。しかし、多極化・脱成長の世界におけるそのような形での議論は、全く役に立たない可能性がある。
ヴォルフガング・ザックスは次のように語っている。「ひとたび収入による基準が設けられてしまうと、例えばメキシコのサポテコ族や北アフリカのトゥアレグ族、インドのラジャスタン族の世界はそれぞれ異なっているのに、すべて一緒くたに分類されてしまうようになる。つまり、"裕福な"国との比較によって、彼らはほぼ測定不可能なほど低い地位に貶められたわけだ。このように、"貧困"という言葉は、国民がどんな人々で何を望んでいるのかではなく、何を持っていないかを基準として、すべての国の国民を定義するために使われたのである」
今、歴史が私たちに求めているのは、コペルニクスの後に続く何世代もの人々が彼の天文学的洞察から生まれた新しい世界観を反映させるために行ったのと同じように、辞書を書き換えて新しい物語をつくり出すことである。
私たちに必要な新しい言葉や物語は生態学用語から生まれ、語る内容は、「隔たり」の代わりに「つながり」、「集合点」の代わりに「ネットワーク」、そして「勝敗や熾烈な競争」の代わりに「相乗作用」になるだろう。
実のところ、こうした新しい語彙は、オープンソース・ソフトウェアやクラウドソーシング、バイオミミクリー(生物模倣)など、インターネットによって可能となった新しい事象からすでに生まれつつある。
現代の思想家や活動家、企業家がなすべき重要なことは、新古典派経済学というあいまいな科学を、理論として進歩し整った魅力的なものにつくり直すことである。
喜ばしいことに、すでにこの計画はうまく進みつつある。たとえ日常的な言葉の中で符号化されていないために分かりにくい場合があるとしてもだ。
産業革命という言葉がつくり出されたのは、後に振り返ってみてそのプロセスが始まったと考えられるときから100年後のことだった。歴史は、今私たちが経験している生態学的革命に関しても、きっと同じように注意深く見守っていくだろう。
(翻訳:三好敦子・古谷明世)