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女性達からのメッセージ~東日本大震災の被災地宮城県石巻市から、その11

2017年11月27日

石巻で聞き書きを続けていらっしゃる千葉直美さんから届けていただいた「女性たちからのメッセージ」をお伝えします。月日が経っても、大事なことを忘れないために。

~~~~~~~~~~~~~ここから引用~~~~~~~~~~~~~~~~~

1)A・T 50代                     2017年1月17日

3.11の時は仙台にいて、勤務していた高校の卒業式でした。生協が毛布やトイレを準備し、食料も提供してくれたので、3日間仙台にいました。やっと石巻へ帰ってくると、自宅の一階が津波に襲われていました。義父は戦争体験があり、井戸水を使ったり、反射式石油ストーブで、災害とはこんなものだと言って、家族を落ち着かせてくれた大きくたくましい存在です。家族が一緒に住んでいてよかったです。当時、同じ県内なのに、大きな被害を受けた石巻と、仙台の市街地では温度差がありました。

3.11後、高校を辞めて自宅近くで塾を始めました。現在は50人の子供が通ってきています。放課後児童クラブと塾の間のような存在の施設です。母が自宅で塾をやっていた時、私は同年代の子供が嫌いになり、子供に関わりたくないと思っていました。でも今、自分も親になって子育ての大変さがわかります。娘のピアノの先生(幼稚園から大学まで)や息子の野球の監督がすばらしく、学校の先生達と同じぐらい、誰か人生に影響を与える第三者的な存在の必要性を感じました。学校ではないけれど、そこにずっといて迎え入れてくれる所。なつかしい場所、なつかしい人になりたいのです。親でも先生でもなく、家庭のような場所。

3.11は、歴史の中でたまたま自分にふかかっただけです。今後 コインランドリーに、おいしいコーヒーやお茶の機械がある、地域の高齢者のための集会所を開きたい。

若いころから、したいことがあったらまずやってみる、お金はあとからついてくると考えていました。借金をしてもいい、自分に投資しろと20歳で読んだ本に書いてあったんです。その投資はいつか自分に返って来るし、その時無駄に思えても後で役にたつのです。思い立ったら吉日。やっておけばよかったと後悔したくない。

保険の仕事や塾講師をする中で簿記に関心が湧いて、39歳で大学生になりました。社会人の経験があって実践があったから、大学の勉強はすぐわかりました。やらない後悔は大きいので、やってあきらめたいと考えています。

英語が大好きで、高校卒業後、飛行機の客室乗務員にあこがれて、専門学校を受験するも2回不合格。スタイルがだめという現実に直面した20歳。それから教材販売、ホテル、フェリーで勤務。北海道にも移住した経験があります。時刻表が大好きなので、旅行の添乗員になろうと旅行業の専門学校へ行きました。海外旅行の添乗員という目標を達成したら、なぜが夢がさめました。

3月生まれのコンプレックスがあって心も弱く、何をやってもうまくいかない子供時代。でも小学5.6年生のころ必死でやったら勉強がわかり、勉強すればいいんだと気がつきました。子供のころ、英語塾に行きたかったのですが、親が月謝が払えないと言うので、中学校で初めて英語を習った時、本当に嬉しかったです。歌から習う英語が好きでした。

子供の成長は後戻りできないので最優先してきました。他の町から嫁にきて友人もいなく義母も厳しく、実家へ帰ったこともあります。25年間がまんしましたが、振り返ると良いことの方が多いです。

海に近い石巻市雄勝病院では入院患者40人が犠牲になりました。助けようとした24人の看護師たちも一緒に命を落としました。遺族が訴えないのは、日ごろ看護師たちがよく患者の世話をやってくれていたのを知っていたからです。雄勝小学校は訓練ができていたので犠牲になった児童はいません。訓練は大切ですね。

2)T.S  70代               2017年1月26日、2月4日

茶道を習っていて気持ちが安らぎます。別世界なんです。震災前も習っていましたが、このごろまた始めて、楽しいです。ただの趣味です、友達に誘われて。

3.11からスカートをはく気にはなれません。スカートは年に2回ぐらい。どうしてもはかなくちゃいけない時だけ。夏でもズボンです。なぜなら、地震がきたらすぐ逃げられるようにと。あの3.11からズボンだけです。それから、アルミホイル、サランラップ トイレットペーパー、カセットボンベを用意し、下着や靴下、食料の入った非常用リュックバッグを準備しています。

福島のこともあって、すぐ逃げられるようにと。原発が怖い。福島のようなことが、また起きたらどうしましょう。自分の土地に帰れないのですから、本当に可哀そう。

いろいろ支援の品物をいただきましたが、みんなに分けてあげるのに疲れました。お皿やアクセサリー、洋服をもっと送ろうかと言われましたが、断りました。自分ではその支援の品物をもらいませんでしたが、お返しにかまぼこや海産物を送ったり気を使いました。ある時は支援の人が来て、近隣を案内しました。支援をいただくのは嬉しいけれど、お返しするのが悩みでした。お返しすると気分が晴れました。

私は農家の出身で、農家の仕事が嫌いだったんです。でも嫁ぎ先が農業関係です。息子が、眼鏡店を開いたので、私も店に出ます。小さい庭に花を植えて楽しんでいます。何も考えず植物の世話ができます。

夏は5時に起きて水をやってから、朝ご飯の準備をします。石巻の中心街は人が歩いていませんね。さみしいです。震災後、お店のお客も減りました。今でも、3.11を話すと涙がでます。

3.11の日は疲れていて、こたつに横になってから、食器を洗ったりしていました。店にいた時、揺れがいつもと違う大きいもので、ゆらゆらと横に揺れました。まず仏壇の花瓶を持ってきて腰がぬけ、スカートに水がかぶりました。家がつぶれるのではないかと怖く、大きい地震が来るといわれていたけどこれかなぁと、ミシミシとこれでもかこれでもかと、揺れました。

次男が外へ出ようとしたがぎっしりつかんで出さず、4人でいた方が安全だと思いました。「高台へ避難してください」という市役所のスピーカーが聞こえましたが、ここまで津波が来たことがないと夫が言い、二階へ上がりました。次男は車を山の上へ持っていきました。

車でラジオを聞くと、女川や鮎川に津波到来のニュース。イチゴやバナナ、おにぎり、食器、それから仏壇のものを箱に入れて二階へ運びました。日曜の同級会に行く予定で、一泊二日留守にするので、家族の食事を作って出かけようと豆腐や牛乳、卵など、いつもより多めに食品が冷蔵庫にありました。蔵に一年分の米があり、濡れたら困ると心配でした。

やがて、黒い水がじわじわ裏から入ってきました。釣り用のクーラーボックスに食品を入れ、反射式ストーブで煮炊き、井戸水をトイレに使いました。知り合いの浜の人の家が流されました。お客様として来ていて知り合いなのですが、震災後、洗濯をしてあげました。風呂の水があったし、近所の井戸にはとても助けられました。

その年の6月末に店を再開しました。あっという間の6年間でした。知人たちに米をあげました。2011年3月から、着たまま寝る一年でした。震災は、いつまた来るかわからないので、忘れないようにしたい。忘れた方がいいと思うこともありますが。お店に被災した人たちが来て話をしていき、お互い話をして助けあいました。津波がきたけど、自分は家があってましだと思いました。震災後、土地や家屋の件で、親戚と少し解決しなければならないことがあって、ちょっと予想外で驚きました。

中・高校時代は卓球部。50代で山登りを始めました。震災前には5年以上も義母の介護をしていました。

3)M. A 70代                 2017年2月17日

川べりの家が津波で全壊したので、屋根はスレート、土台も基礎も300万円かけて修復したけれど、防潮堤建設のため立ち退きをさせられ、2014年11月に涌谷(石巻から車で30分)に家を新築して引っ越してきました。以前は、600万円もかけてトイレと台所を直したのに。

3.11の日は、一人でコタツでテレビを見ていました。激しい揺れで家がつぶれるなぁと思い、本棚をおさえて、仏壇の花瓶を下に置きました。でも津波がくるとは思いませんでした。仙台の人がラジオを聞いていて、石巻の隣の人に電話し、津波がくるとおしえてくれました。防災無線は外に出れば聞こえたけれど、前に無線の音がうるさいと言う人がいて、音量が低くなっていました。

津波が来る前に、近所の一人暮らしの年寄りの女性を連れて山へ避難。その途中で、逃げないという人を引っ張って「逃げっぺし」と一緒に逃げました。6日間、知人の家でお世話になりました。3月17日に、避難所となっていた公民館へ移動。すぐ風邪をひきました。

市内で働く娘が、3月12日に帰ってきました。公民館から通って娘と一緒に家を片づけました。農家の親戚が、3日に一度、水を軽トラにいっぱいに井戸から汲んできてくれたので、お風呂もすぐ入り恵まれていました。近所に難病の人がいて 長靴、テッシュ、油、下着など全国から届き、同じ班の9人が分けてもらいました。

外国からも支援物資が届き、区長が分けてくれました。常に近所づきあいをしていることが大切ですね。私も、上の押し入れに乾いた布団やタオル、下着があって、公民館で配りました。お互いに助け合いました。ただ、避難所で、威張ってしきるリーダーがいて、いい気持ちはしませんでした。

万が一に備えての各家での食料や日用品の備蓄は必要ないと思います。3日間、がまんすれば、届くのですから。津波で濡れた米も紙類もだめになりましたよ。ぐちゃぐちゃの家にもどって、「あらー」と思ったけど、他には何とも感じませんでした。片づけなくちゃとか、もったいないと思わなかったです。知らない人が道を通リ、その人が、ご飯を食べたかどうか気になり声をかけ、おにぎりをあげました。ボランティア6人にも出前をとってごちそうしたこともあります。

私は、過去の終わった事はくよくよ考えない性格で、ああすればよかったと深く考えず執着しないんです。涌谷は実家があった所で、同級生がいっぱいいます。年に一度の一泊旅行が楽しみです。1998年に、私が54歳の時に夫を亡くしました。夫は60歳で肝臓がんでした。入院して10日間で亡くなりました。同じように夫を亡くした近所の人は、悲しみにくれていますが、自分はなぜか大丈夫なんです。88歳の義母が乳がんで亡くなるまで9年間、介護しました。

夢中で生きて精一杯生きてきて、悲しんでいる暇がありませんでした。3.11後、大変だとは、そんなに思いませんでした。引っ越しもさみしくなくて、未練がありませんでした。父が満州鉄道の仕事をしていて、戦死しました。私は満州で生まれ、引き揚げてきたのです。その時、6歳と3歳の兄がいて、自分は一歳でした。母は、最初は父の実家へそれから自分の実家へ戻りました。学校へ行って美容師の資格を取り、町で唯一の美容店を開き繁盛し一人で私達を育て、美容師で身をたてたのです。

4)F・S 40代               2017年3月11日(土)

地元の新聞に、自分の震災の経験を連載したことがあります。公表するのをためらったけれど、石巻以外の人にも知ってもらいたいのでネットでも公開しました。

3.11の時、社会福祉の仕事で同僚と二人で80代の認知症の女性を訪問中でした。家具と荷物いっぱいの部屋。

揺れの後、建物が崩壊するかもしれないので女性に毛布を着せて外へ出ました。津波で建物が孤立し餓死するかもしれないし。近くに精神障害の50代の女性も、仕事で知っていて、一緒に避難。彼女は傘をたくさん持っていて、10本借りました。

すべて、結果論でしかないと思います。良かった、悪かった、どう転ぶかわからないし、その時、誰に何を言われたかでも影響されますが、自分でその時、考えられる限りの最善の選択をしてみんな判断し行動したのではないでしょうか。振り返ると、あの日、認知症の高齢者との話が実は30分オーバーしていました。そのおかげで津波が来た時間に、自分は運転していなかったので助かったのです。その女性のアパートに留まった方がよかったか?津波がこなかった地域だから。彼女と避難する必要があったのか?と考えました。

大津波警報が鳴り、寒いので小学校へ避難しました。ちょっと高い体育館へまず行きました。側溝から汚水が噴き出てきて、ミシミシ、ゴーンゴーン、メリメリという聞いたことのない音と、遠い家屋の上から黒い煙がもやのように上がっていました。あれが津波だったのですね。

体育館も危ないと感じ校舎の上に逃げようと、「だめ」という先生に「じゃまだ。」といって先生を押しのけ中へ入りました。責任をとって後で謝るからと言いました。なんだか、教員の危機管理のなさを感じました。結果としては体育館に津波はこなかったけれど、ぎゅうぎゅう詰めで入りきれない人達がいたので校舎に入ってよかったです。

車が流されるのを見ました。海から1.5キロの学校は、水に囲まれ孤立し退路を断たれました。貯水槽が屋上にあったので、ペットボトルに水を汲みました。門脇小学校の火事が見えました。油にまみれた人達が運び込まれました。夜は真っ暗です。ここにも火の手があがるかと心配で、早く朝が来て誰かが来てくれるかもと悲鳴を上げるように祈っていました。周りが海で、地球の軸がずれて、朝が来ないかもしれないと思いました。

3日目に自衛隊が来て、食料が配られました。教室に支援物資があって、「取りに来てください」と言われ子供が走って取りにいっていました。病人はストーブがある部屋。自分はたくあんの缶詰をもらいました。牧山トンネルの中を、知らない男性が軽トラでピストン輸送をしていて、荷台に乗せてくれ市街地へやっと出れました。

自宅にも津波が来ていました。水の中を歩いて帰りましたが、危ない所に落ちたら大変なので、どこかの家の庭から植木の支柱をかりて慎重に歩きました。近くのスーパーが開いていたので助かりました。在宅避難者には食料なく、避難所にはいっぱいありました。

3.11後、悪いこともありましたが良いこともありました。動物シェルターでボランティアをして犬の散歩の手伝いをすることで癒されました。全国からのボランティアにも会えました。子供の時から動物好きで20代のころ動物関連の仕事をし、30歳の時ニュージーランドの動物関連のワーキングホリデーに参加しました。自宅のネコが、3.11の後から、布団に入って寝るようなりました。温かいですよ。

支援物資は町内会で分け合い、班長が中心になりました。これがきっかけで、地区の人達と「町作り協議会」を発足し、地域を知るためのウォーキングや花壇作り、地図の作成、コンサート等のイベントをしています。「万事塞翁が馬」です。あまり先のことを考えず今日できる事をしようと思います。何か特別のことをしたいとは思わない。  

 

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