水中を飛ぶように泳ぐペンギンやアザラシの視点から見るホッキョクグマ、高さ17mの塔を綱渡りで移動するオランウータンなど、動物の生き生きたした姿が観察できる「行動展示」で有名な旭山動物園。
動物のありのままの生活や行動、しぐさの中に「凄さ、美しさ、尊さ」を見つけ、「たくさんの命あふれる空間の居心地の良さ」を感じて欲しいという理念を掲げています。
この時代における動物園の果たす役割とは? 坂東園長にお話をお聞きしました。
幸せ経済社会研究所のインタビューコーナーに新しいインタビューがアップされました! 写真などはこちらからご覧ください。
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「この時代における動物園の果たす役割とは?」―大人気の旭山動物園の坂東園長に聞く
■自然を感じられる場所で気づいてもらうこと
枝廣:環境問題がいろいろ大きくなってきて、世の中の関心が高まっている一方、自然破壊や温暖化も進んでいます。そういった状況の中で、動物園の果たす役割とは何でしょうか?
坂東:僕らの日常生活の中で、自然を感じることが、すごく少なくなっています。特に都会の人はそうだと思います。でも、現実に、大変豊かな生活が成立している。一方で、知識として、「環境破壊」や「絶滅危惧種」など、言葉としては聞いています。でもたぶん、実感がない。何となく、「どうにかなるんだろう」と、あまり危機感を持っていない人が大半だと思います。
その中で、自然を感じられる場所として、動物園の存在意義は大きくなってきている。昔の「動物が見られればいい」というのとは違う意味での存在意義ですね。
特に、動物園で働いている僕らは、いろいろな生き物に興味があるので、その危機感はおそらく、普通に生活している人よりは強いと思います。みんながまだ気づいていない、あまり切迫感を持っていないことに、僕らは先に気づいている。そういうものを察知して、たくさんの人に気づいてもらう可能性のある場が動物園です。
なぜ気づいてもらえるかと言うと、そこに剥製じゃない生き物がいるから。存在として、そこに生き物がいて、現実にそこで生きている生き物がいて、彼らの未来は見えない時代になっていますよ、と。そういう場としての役割なのだろうと思います。
だけど一方で、動物園に足を運んでくれなかったら伝わらない。どうやって足を運んでもらうか。動物園に来たときに、感動がどこにあるのか。動物園はしょせん人間がつくった場所です、だけど、それがないと、普通の人が知るきっかけがないという意味では、「自然を知る玄関口」だと思います。
足を運んでくれた方々に、今動物たちが置かれている状況や、人とのかかわりをちりばめながら、押し付けではなくて、「あ、そうなのか」と気づいてもらうこと。それが一番大きな、動物園の役割になっていかないといけない。
枝廣:「自然を感じる」というのは、どういうことなのでしょう。
坂東:難しいんですよね。たとえば、「トラが絶滅危惧種です」ということは、小学生も知っています。だけど、実際にトラという生き物が生きているという感覚は、いくら本を見ても映像を見ても分からないと思います。
「本物って何?」ということだと思う。「映像のトラだって本物じゃないか」と言われるけれども、そこに生きていることが確認できるのは動物園ですよね。そこに生きていて、何か自分がした行動に対して、ふっとこっちを見てくれる。においもあり、鳴き声もあり、個体同士の関係もあり。映像と違って、予測できない動きをする。その存在が確認できる場所。本当の生き物としてそこに存在しているということ。そのことが動物園のポテンシャルじゃないかな。自分がちょっとやさしくなれる場所かもしれないし、いとおしさだとか、そういうものを感じられるんじゃないのかなと思っています。
よく、「動物園なんて、なくてもいいんじゃないか」と言われますが、動物園がなくても、日常の生活の中でふっと、「アフリカにいるゾウ、今日は元気かな?」というように、みんなが感じて生きているんだったら、きっとこんな社会にならなかったし、こんな環境にはならなかった。そうなれるのだったら、動物園はなくてもいい。
でも、そこにいる命がある。たとえば旭山で誕生した命があります。その成長を見守って、その中から、彼らの野生のふるさとはなくなろうとしていますよ、そのことから僕たちみんなが恵みを得ている時代になっていますよ、と。そこではじめて、他人ごとではなくて自分ごとになるんじゃないのかなと思うのです。
■動物の「社会」にも機能とルールがある
枝廣:子どもが小さい時に、動物園に連れて行ったときにもオオカミがいたと思うのですが、だいたい向こう向いて寝ていましたね。動かないので、剥製か映像でもいいぐらい。でも、今日の旭山動物園のオオカミたちが、こちらを見た時は、怖かったですね。 「存在を感じる」とおっしゃった、その命を感じました。今の社会は、人間同士でも命を感じることなく過ごしていますよね。
坂東:「社会」じゃなくて「集団」になっている。「かかわりを持たないで維持しよう」という考えといえばよいのかな。昔は、かかわりを持って互いに理解しながら、けんかもしながら一緒に暮らすというのが基本的に社会だと思っていた。でも今は、かかわりを持たないで密集した数を維持していく。「社会」としての機能はほとんどなくなっているような気がします。
枝廣:そう思うと、今日、オオカミたちが遠吠えする前にじゃれ合っていましたが、あれはじゃれているのですか?
坂東:じゃれもありますが、それは厳しいですから。そのときそのときで、群れの中での順位が微妙に変わるんです。でも、それ以上はやらない。ルールがしっかりある。けんかのルールがあるんです。
枝廣:社会ですね。
坂東:完全に社会です。仲良くだけじゃないことを伝えたくて。「仲良く」だけで生きている生き物はいない。「理解し合おう」という努力があって初めてできる。たとえば、オオカミは野生では増えすぎない。オオカミがいて、食べられる動物はシカです。シカは1年に1頭しか産まないのにシカのほうが数が多い。オオカミは1回に6頭も8頭も産むわけです。そうしたら本当は......
枝廣:食べ尽くしちゃいますね。
坂東:そう。おかしいですよね。シカは1年に1頭しか産まないのに、そんなに減っていかない。オオカミは、8頭産まれたら8頭全部が大人になれるわけではないんです。多産の動物はたくさん死ぬから多産なんです。それは何かと言うと、オオカミ同士です。そんなに生やさしく生きている生きものなんて、本当はいない。オオカミ同士だからこそ、縄張りを守らなきゃいけないし、そこから闘争が生まれてくる。
オオカミは、親の保護下にあるうちはほぼ100%死なないです。群れがしっかりしていますから。でも、1歳、2歳になって、群れから出ていきなさいとなると、ほとんど生き残れない。ほかの群れのテリトリーに入ると、そこから追い出されるし、下手すると殺される。単独では大きなシカは捕れない。パートナーもちゃんと見つけないといけない。
すごくたくさんのいろいろなハードルがあるんです。どの動物もそうです。ライオンもそう。ライオンの雄で10歳を超えるなんて、野生下ではほぼいない。ピークを越えたら自分の群れは持てない。だから、それまでに自分の子を残せるかどうかが勝負です。厳しいんです、生きるということは。
枝廣:翻って人間同士のかかわりを考えると、「かかわりを持たない」か、「仲がいい」か、「けんかしている」か、それぐらいに分かれちゃいますね。
坂東:そうでしょうね。僕ら、ヒトの可能性は言葉を持つところだと思います。過去を伝えられるし、未来を伝えられるし、言葉で考えられるから。動物には言葉がないから、僕らのように理屈を持って考えられない。だから、その瞬間、瞬間を積み重ねていく。だから、「今を一生懸命」というのは、僕らの比じゃないと思います。
でも、僕らは言葉を持って、こういう高度な社会を持っているのに、ところが今、自ら放棄し始めている。そういう時代に入ってきている。僕たちはどこへ向かうのだろうと思います。環境問題もそうです。人の心にゆとりがないと、ほかの生き物なんか守れっこない。ピリピリすれば、地域なんて守れないし、自分のことしか考えられなくなる。今、そういうふうになってきているから、難しいなと思います。
■数を数えられない動物たちが、微妙なバランスを取っている世界
枝廣:お書きになった「『ヒトと生き物 ひとつながりのいのち 旭山動物園からのメッセージ』」というご本に、「数を数えられない動物たちが、ちゃんと微妙なバランスを取っている」と書かれていましたね。
坂東:そうなんです。調和とバランスを取っている。それなのに、数を数えられる僕らがまったく調和もバランスも保てない。
枝廣:何が違うのですか? 動物たちはどうして微妙なバランスが保てるのですか?
坂東:たとえば、シマウマとライオンの関係で言うと、よく「天敵」と言いますが、ライオンがシマウマを捕れる確率はせいぜい2割程度です。野球の選手だったら、レギュラーにもなれないぐらいの確率なんです。
ライオンといえども、一番元気なシマウマを捕る能力はないんです。だから、ちょっとハンデを持っている動物、たとえば病気になっているとか、子どもだったり、年老いていたりというのを狙う。ライオンは伏せて狙いを定めるんですけど、スッと動いたときに逃げ遅れるものとか。
たとえばオオカミだと群れを追っているところで、そこから脱落しそうな弱そうなものにロックします。ほかのものを無視して、それだけを外していってやろうとする。そういうふうにできているんです。だから、病気だったり弱かったり、そういうものから間引かれていきます。
それで食べることが成立する。変な見方かもしれませんが、たとえばシマウマの中で感染症が広がったとする。その病気にかかって弱っているシマウマが最初にやられますよね。そのことで、ほかのみんなが守られます。「治療し続ける」という医学ではなくて、「間引く」医学というのかな。「個」を見るよりも「全体」を見るということです。調和です。
人は、空を飛んでいる鳥を見て飛びたいと思って飛行機をつくり、魚のように泳ぎたいと思って、潜水艦をつくりもっと早く走りたいと思って車をつくり、としてきた。欲ですね。命も長くしたいと思って、結果として長生きになった。
でもね、不思議なんですよ、動物園で鳥を見ていても。スズメがいますよね。シジュウカラという、ヤマガラとかカラの仲間がいるんですが、スズメと同じように枝に止まる。たとえばヒマワリの種があると、シジュウカラはそれをクチバシでつまんで、種を置いて、足で押さえて、クチバシでツンツンツンとやって食べる。
でも、スズメにはそれができない。できないし、「自分もやってみたい」という脳の回路ではないんです。だから共存が成立する。奪い合いにならないのです。それぞれの能力や、時間による棲み分けや競合しない仕組みを持っている。欲の有無という言い方がいいのか分からないですが、スズメにだってできないわけではないはずです。だって、木に止まれるのですから。
すごいと思います。だって、何十種類の鳥が同じ山の中で生活できるのですから。人間なら絶対に奪い合いになりますよね。競争の論理というか、脳の回路などがまったく違うんですね。それが劣っているということではなく。人間が優れているとは思わないですので。
だから感じ方にしろ、いろいろな情報が入ってきたときにも、頭の中での処理の仕方がまったく違うんだと思います。だから人に殺されても、彼らは恨んで反撃に出てくる、ということはないですよね。一方的に死んでいきますよね。まさに調和ですね。
動物の世界に「絶対」というのはない。人間は「絶対」を求めます。人間に狙われたら生き残れる生き物はいない。そういう意味では、どの生き物にとっても、ヒトだけが天敵です。動物の間では、必ず駆け引きというか、「どちらかがどちらかに対して100%」ということはない。ライオンでも、オオカミでも、たとえば、狩りの途中に蹴られて足を骨折したら、獲物が捕れなくなる。だから、そのとき死ななくても結局死にます。だからそんなに一方的じゃない。
でも、死ぬから生きられるんです。「食べる」って、命を奪うことですから。僕らも食べます。命を奪っているのですけど。それが間接的になっていて、感じていないというだけの話です。牛も豚も、膨大な命を奪って僕らも生きているわけです。
■人間と動物―感情がもたらした変化
枝廣:人間はもともと、そういう動物たちの「ひとつながりの命」の中にいたのですか?
坂東:ヒトになる以前は、おそらく、自然環境の中で自分たちの立ち位置をつくりながら存在していたのだと思います。基本的には、火をコントロールすることと道具から変わってきた。ヒトは直立したので、重たい頭が持てるようになり、声帯にも余裕ができてしゃべるという発声のバリエーションも増えた、などと言われますね。
ヒトは極端に特殊化しなかったから、サルの中でも特徴がない。モノにはぶら下がれないし、チンパンジーほど特化していないから、可能性が残ったと言いますよね。それが良かったのか悪かったのか分かりませんが。
でも、昔から、社会性のある生き物には競争がある。チンパンジーも、自分が食べる場所は自分の陣地にしたい。みんな基本的にそれがあるから、ぶつかりが出てくる。
チンパンジーぐらいになって、本当の社会性というか、感情とかのコミュニケーションがある生き物になると、今度は好き嫌いの感情が働いて、追い出しや子殺しなどが生まれてくる。チンパンジーなどを見ていると、感情の部分では人と一緒だなあと思います。戦争も、結局感情ですよね。理屈で防げないということは、そういうことだと思います。
枝廣:チンパンジーはまだ、「ひとつながりの命」の中にいる?
坂東:まだ自然の中にいます。チンパンジーには、幼稚園児くらいの知能があると言いますが、たとえばモノを持つことはやります。ヒトだと2、3歳ぐらいになると、急に人の顔を描けるようになる。〇の配置で顔と認識できる。でもチンパンジーにはその回路がないみたいですね。だからいくら描いても落書きしかできない。そういう意味では、人ほどの欲を持つといった、そういう回路はないのだと思います。簡単な道具を使ったりはしますが。
枝廣:人が欲を持って、奪ったり叩きのめしたりするのは回路ですか? それとも、そういうふうに進化しちゃった?
坂東:人は、必然的にそういう生き物なのだと思います。だけど、言葉を持ったことで、感情を抑えたり、社会の中のルールを明文化したりできるようになった。だからこんなに異常な数になったともいえる。
東京なんか、電車の中に何百人いても、取りあえず和を保っているでしょう? チンパンジー100頭を電車の中に入れたら、えらいことになります。人は、知らない人同士でも、ちゃんと挨拶しましょうとか、握手しましょうとか、ルールをつくってきました。だけど、根っこは一緒です。だから感情が先に立った時点で、和を保てなくなりますよね。
枝廣:その上に、火を持ち、道具を持っているから、大変なことになりますね......。人間がひとつながりの命、自然界の命の循環の中から外れているのは、進化とか回路とかのせいだとしたら、最初に人間ができた段階で、自然も地球も滅びる運命になったということでしょうか? それとも、人間がもっと進化すれば......?
坂東:人間の文明って、メソポタミア文明やエジプト文明など昔からあるけど、文明が滅びるときは、基本的には、人為的な、局所的な環境破壊が原因だと言われていますよね。だから、大洪水が起きたり、必ず天災が起きたりする。
その時代の技術の頂点を極めたときに起きているんです。過去の文明、みんなそうです。その時の技術の、本当の繁栄を栄華したと思ったら、何かが起きるんです。今がもしかしたら?
僕から見ると、人間なんて、しょせんチンパンジーに毛の生えたようなものなので、今こんなに「すごい、すごい」と言っているけど、科学が進歩して、技術が進歩して、恐竜時代よりほかの生き物がどんどん死んでいっているわけで。これがほんとに進歩なのか、と思います。
原子力とか、制御できないものは科学ではないと思う。自分たちでまったくコントロールできないものをつくり出した時点で、どうなんですかね。だって、次に東海かどうかわからないけど、大地震が来て、原発がやられたら、もう日本は終わりだと思うんです。
枝廣:ほかの国にも迷惑かけるし......。
坂東:「動いていないからいい」という話じゃないじゃないですか。その場にあるのですから。核廃棄物を最終的に処理する方法も見つけられていない。どこかに埋めると言っても......。
■「ひとつながりの命」の中で人間ができることとは
枝廣:どうしたら人間も共存させてもらえるようになるのでしょうか。今の小賢しい知恵や技術ではなくて、もっと進化しないといけない?
坂東:どこかで一度、立ち止まる。ここまでのものを享受してきたが、これが当たり前なのか? 何かちょっとずつ、1個ぐらい引き算してみようと、みんなが思えるか。
でも、そういう可能性はあるような気がしています。パソコンが出始めた時は、CPUがどうといって、1年もたたなくても次から次へと買い替えていたけど、「ここまでいらないんじゃないの?」みたいなことに、今気づいてきたように思うんです。
枝廣:少しずつ。確かに。
坂東:もうCPUだけを見て選ぶ時代ではなくなっている。「これ以上いらないんじゃないの?」「むしろ、ここまではいらないんじゃないの?」と。どこまで求め続けるのか。もう1回自然に帰ろうという動きは、その反省に立っているんだと思います。
完全に管理されて、徹底的に追求した中で幸せを感じるのか、自然の原っぱで風が吹いたのに幸せを感じるのかで、きっと未来は変わる。ナチュラル志向やスローライフといった、いろいろなことが起きています。
枝廣:それが、社会・経済の主流になっていくにはどうしたらいいかと、いつも考えているんです。
坂東:そうですね。1000円の時計と100万円の時計があったとき、100万円の時計を選ぶのに理屈はないんです。単純に所有する喜びなんです。たとえ1000円のデジタルのほうがずっと正確でも。
それと同じように、100人が100人にはならなくても、「ほかの生き物にちょっとやさしいものですよ」、「ほかの生き物と一緒に暮らせる未来を見られるものですよ」というものにお金を出すという付加価値観が育てば、と思います。2回に1回でも、ちゃんとした正当なお金を払う。
枝廣:「ちゃんとした」お金。
坂東:「その100円分が必ず現地に届いて、具体的なプロジェクトとして見えているものに寄付される」というようなものをたまには買うとか。ほんのちょっとしたことです。ただ、あまり具体的なプロジェクトがないですね。みんなの気持ちが何に届いたのかを感じられるものが。
今、クラウドファウンドなどを見ていると、広島県が犬の殺処分ゼロというようなプロジェクトでふるさと納税をやったら、驚くくらいお金が集まったり、動物園がライチョウの保全プロジェクトで1000万円を目標にクラウドファンドをしたら、2000万円集まったそうです。
このように、何らかのプラットフォームがあって、「こういう目標を持っています。これを応援してくれたらこれができます」という、自分ではできないことを具体化しているものがあれば、それを応援する人たちは潜在的にすごく育っているのではないかと思います。
枝廣:そうですね。今、そういう応援するプラットフォームに参加したい人は増えていますね。
坂東:ボルネオゾウの未来を考えて、日本人が1人1円出せば、ゾウの未来は変えられるんです。でも、それが出てこない。特に環境などに関するプロジェクトは、なかなかお金が集まらない。一方、目の前に見える何かの命、たとえば心臓病の手術のためにアメリカに行かせてあげよう、というプロジェクトには、驚くぐらいお金が集まります。そういう気持ちがある人たちはいるんです。
だから、たとえば「オランウータンと一緒に生きる未来」とか、そういうものにもみんながお金を出すようになれば、本当に未来は変わると思います。動物園は、そういうことを先に察知できる集団です。
だから、「そこに生き物として動物がいて、自分たちはこういうことに気づいたので、こういうことをやっていきます」と、具体的に示して、「だから応援してください」とみんながもっとやっていかないといけない。「こいつらの未来はもう何十年もないです」としゃべるのはいくらでもできますが、具体化することです。そこを、これからどう切り開いていけるかだと思います。
■見えないことを想像する
「他人ごと」から「自分ごと」へ
枝廣:先ほど、動物園を見せてもらっているときに、アザラシの食事タイムがありました。食事タイムって、動物園や水族館のハイライトの1つですよね。みんな楽しみに見に行くけど、そのときに、係の方がアザラシをめぐるいろいろな状況をお話ししながら、エサをあげていて、いいなと思いました。
ご本の中に、シカの赤ちゃんが町の中で保護されたら、みんな「かわいそうだから何とかしろ」と言う一方で、数知れないシカが害獣として殺されて、産業廃棄物になっているという話がありました。目の前の見えているものには、「かわいい」とか「かわいそう」とか「何とかしたい」と思うのだけど、それを超えては、想像力が届かない......。
坂東:そうでしょうね。でも、人間の社会の中でも、見えない所で起きていることに対して、あまり人は本気で動かなくなっている気がするんです。たとえば、クルドの問題で、「空爆で何十人死にました」と聞いても、別にドキッともしない。だけど、もしも自分の出身学校の子が「交通事故で死にました」というように、つながっているとドキッとしますよね。
その接点ですよね。「他人ごと」じゃなく、「自分ごと」に落とし込めるかどうか。でも、今の社会は本当にかかわらない社会になっているから、見えない所で起きることに本気で反応することがない。それに危機感を持つ人がいない。人間同士でさえそうなのだから、まして動物が死のうが生きようが、見えない所でやっているなら気にならない。
枝廣:それは、私たちがそういう能力を退化させているのか、もともとそういう能力を十分に発現したとしても、自分ごと化は難しいのでしょうか。つなげて考える回路が足りないのでしょうか。
坂東:どうなのでしょうね。情報があふれ過ぎているような気もする。あまりにも特殊なことでも全国的に取り上げているとか、何が本質的にちゃんととらえるべきことなのか、わからなくなってくる。芸能人が何をやっていても、別にどうでもいいことじゃないですか。だけど、ニュースとしては、芸能人の不倫のほうが大きいんです。
枝廣:ずっと大きいですね。
坂東:大きいですね。いろんな情報があふれている中で、みんな、都合のいいところだけを見るようになっている。
枝廣:そうですね。今、ネット検索も人工知能によって、ますます自分の好きな情報しか出てこなくなってますよね。
坂東:そう、出てこなくなる。すごいですよね、検索していると、「あなたにお勧め」という情報がバーッと出てきますね。
枝廣:私も原発賛成・反対をめぐっていろいろな活動をしているのですが、原発賛成の人はググったら絶対賛成の意見ばかり出るし、反対の人は絶対反対の意見ばかりを読むことになる。「それが世の中全般だ」と思い込むので、違う意見の相手が信じられない、となってしまう。思考停止です。
坂東:原発は、本当は、みんなが「10年後、20年後にどうありたいのか」を議論しないといけない。今の若い世代に、それを引き継いでしまってよいのか、と。
倉本聰さんと「原発なくていい? どうします?」という話をしたら、私たちより上の世代は、「ないならないで、しょうがないな」と言うそうです。でも、20代くらいは、「原発なくなったら、スマホ持てなくなるかもしれないよ」と言うと、「それは困る。嫌だけど、原発がなきゃ駄目だね」と言うと。僕らみたいに黒電話を知っている世代のほうが、そこに戻ればどうにかなっていたということを知っている。
たとえば、ガソリンがなくなって耕運機が動かせくなくなっても、馬が何頭かいれば、取りあえず自分たちが食うぐらいはできる。そういう経験知があるから。後戻りって、僕らが思う以上に難しいんでしょうね。引き算しないと意味ないですよね。北海道もそうですけど、結局、原発止めても、原発前とまったく同じ量のエネルギーを使っている。そこが一番問題だと思います。
東日本大震災の後に、東京に来たら、空港も全部暗かった。コンビニも全部、夜になったら電気消した。そうしたら、ランドマークがなくなったから道に迷うとか、こんなに暗かったら階段を踏み外すとか、そういう議論になった。
僕は、デザインを変えればいいんだ、と思ったんです。特に羽田空港で思ったのは、今の広告って裏から光を照らして光るようにしている広告が多い。はめ込み式ですね。それを、昔ながらのポスターにして、小さな電気でそばからポッと照らす。そうしたら必要な電力は何分の1かになるんじゃないか。
そもそものデザインが、照明があるということを前提に全体に暗いトーンになっているけれど、照明をもっと落とすことを考えて、デザイン自体をもっと明るいトーンにすればいい。悲しいかな、そういう議論がなかった。羽田空港がすごくみすぼらしく見えたのは、本来あるべき広告のライトを消しているからです。それを、おしゃれに見えるように、なぜ発想を変えなかったのか。
枝廣:「我慢」か、「全面展開」か、ですね。
坂東:電気自動車もそうです。今、電力を充電して車を走らせるという100%の電気自動車はエコじゃないですよね。だって、化石燃料で発電した電気を使っているのだから。
本来の目的をどこに見据えるかではなく、すごく近眼的にしかものが見えないから、手段・方法が目的に化けていく。ちょっとした改善が目的に化けてしまう。何かをちょっと変えることが良いことのように言うけれど、本当は何らかの目的があるから改善するはずなのに。
枝廣:視野が狭くなってきている。
坂東:あるところだけを見て、「あいつが悪い」と言うのですが、「自分が悪い」とみんな言わなくなっている。自分は正しい。自分にも何かがあるのかなという発想を、ほとんどの人が持たなくなっていますよね。自分に不愉快なことは徹底的に言ってくる。
枝廣:昔は、日本でもそうではなかった? だんだんひどくなってきた?
坂東:すごく思います。動物愛護などでも、100人いたら100人正義。「あいつはおかしい」と思ったら、言っている側が正義なので、話を聞いてくれないです。 枝廣:冷静に対話するとか、自分の主張は置いておいて相手の言うことを聞くとか、そういうことすらない。
坂東:そういう訓練がないのかもしれないですね。言いっ放しみたいに。ネットになると言いっ放しなので。目を見て話して、相手がそれで傷つくとか、悲しむということを見ることがない。小さいころから、ほんのちょっとしたことで自分も傷つくし、傷つけるしという積み重ねがなくて、いきなりやるから、自分が消えるか、相手が消えるかみたいな感じになる。そんな気がします。
■当たり前の中に価値がある動物園が果たす役割、伝えたいもの
枝廣:動物園に行っても、命を感じる感覚そのものがなくなっているのでは、と話しましたけど、目の前の相手の感情すら、感じないようになっているのかもしれないですね。
坂東:アンテナがないと感じられない。小さい時に、アンテナをどれだけ立ててあげられるかだと思います。
枝廣:そういう中で、だんだんバーチャルな世界になっていく中での動物園の役割は、ますます大事になりますね。
坂東:動物たちは、何千万年、生命観がぶれないですよね。その中でちゃんと調和とバランスを取って生きてきている。人間関係は、10年単位で見ても生命観がぶれる。そのとき言っている正しい基準が変わる生き物なんです。だから、変わらずに生きる仕組みがあって、その中で自分たちが変わっていることに気づける場でもあってほしいと思います。ふっと何か、「こうじゃないのかも」とか。
うちの動物園では、夕方行くと、フクロウに餌のヒヨコをそのままやります。みんな見ていて、「えっ! フクロウ! あれ、ヒヨコじゃん」って。「気持ち悪い」「かわいそう」とか言うけど、でも考えてみたら、食べないと生きていけない。
結構ショッキングらしいんです。フクロウって、すごくかわいいイメージをみんな持っている。それがヒヨコを食べているから。それを見て「キャー」みたいになります。でも、何かには気づいてくれていると思います。当たり前のことに、そうだよねと。都会の動物園みたいに、お客さんが「くさい」と言うから、ペットと同じような消臭剤入りのドライフードをあげるみたいな発想は、うちにはない。
枝廣:動物園の柵のあちこちに、「お尻向けたら気をつけてください」と書いてありますね。
坂東:そう。たまにかかるんです。うちはすごくにおいの強い動物園です。カバだってあの距離にいるわけですから。たまに「くさい」と言っている人いますけど、でも、ペンギン見ていて、「ペンギンくさい」とか言う人はあまりいない。自分が肯定的にとらえれば、その存在を認められる。においも含めて。好きな人のにおいなら認められる。これがペンギンのにおいなんだねとか、当たり前に気づいてもらえることも含めて、動物園なのかなと思っています。
枝廣:動物園って、子どもが行く場所で、大人は付添いで行くというイメージが強いですけど、大人が行くといいですね。今増えているのかな。
坂東:うちは、大人は多いですよ。ただ、動物園全体で言うと、少子高齢化なので、大人が来てくれないと、入園者数の絶対数はすごく減っていきます。ただ、社会を変えられるのは大人なので、大人が来て、何か一つでも気づいてもらえれば、と思います。たとえば、「そういえば何十年前こうだったよな。何で今、こんなふうに言っているんだろう」とか。社会を動かしている側の人が、何かふっと気づいてくれれば、可能性はもっと大きいのかもしれないですね。
枝廣:動物園の経営はどうなのですか。
坂東:動物園の話は結局そこに行きつきます。入園料収入もありますし、企業寄付とか個人の寄付が大きいです。
ヨーロッパなどは遺産寄付があります。小さいときに動物園に行きました。友の会の会員みたいなのになってくれました。何かプロジェクトがあったら寄付してくれました。そういう人たちが亡くなったとき、財産のこれだけを動物園に、と。それがすごい額なのですって。そのことが自分の名誉にもつながる。自分の名前がそこに残って、孫たちにつながっていく。そういう価値の巡り方ができている。
日本もそれを目指さないと。地方の小さな自治体では、動物園を抱え続けるのはかなり厳しくなると思うので、企業とかいろいろな人の応援が必要です。日本は動物園の入園料が安いんです。アメリカでもヨーロッパでも千何百円から2,000~3,000円と、水族館と同じくらいです。
枝廣:たしかに、日本では水族館のほうがずっと高いですね。
坂東:それを疑問に思わないですよね。でも、生きているライオンを生で、500円で見ることができてよいものかどうか、と考えてみてほしい。キリンがそこにいることは、本当は1,000円で見られて良いものではないかもしれない。
払ったお金に対する価値という感覚がどうしてもあると思います。だから動物園はすごく安く見られる。気軽に見られるという良い面もあるんだけど、気軽に見えてしまう生き物だから、「そいつらが大変なんだよ」と言ってもその価値がわかりにくいという面もあるかもしれない。
枝廣:本当は、小学生でも中学生でも、お小遣いをもらうようになったら、50円でも自分でお金を払って見に来ないといけないのかもしれない。
坂東:映画を観ても2~3千円する時代に、これだけの動物を800円ぐらいで見られていいのかなと思うんです。日本では特に公立の動物園になると安い。うちはそれでも高いほうですけど、どこかが1,000円の壁を破っていく必要がある。別に収入源という意味ではなくて、こういうものが見れることの価値を伝えるために。中学生以上なら、100円ぐらいは。
枝廣:価値あるものにちゃんと払う。
坂東:正当なものには正当なものを支払う。日本の動物観の育たなさは、そこにもあるかもしれない。動物園って、すごく安くて、安易に見られる場所になっているんですね。だけど、安いから、その分、正当な整備ができないから、安いから汚くても仕方がない、みたいに。
枝廣:悪循環ですね。
坂東:悪循環です。欧米などから見たら、「何でこんなふうにしかできないんだ」と言われてしまう。どこかで好循環に切り替えないと。動物園は、戦後のまま、50年前、60年前の発想のまま来ているんです。見せ物の延長線上でしか見ていない。気づいている人たちが出てきていることも事実ですが、でも、全体的には、「安いし、ちょっと行ってみるか」。だから、見せ物でいいじゃないか、という感じも強い。
ペンギンの散歩が人気ですが、あれは本当にペンギンの運動のための散歩なので、お客さんがいなくてもやっている。どうせだから見てもらおうよ、というだけです。ただ歩いているだけなんです。当たり前がすごく感動を呼んだりする。
枝廣:感動しました。ついて歩いちゃいました。
坂東:別に媚を売るしぐさはないんです。アザラシも、ただ泳いでいるだけ。別にショーをしているわけじゃない。だけど、当たり前に素晴らしさを感じてもらう。うちはそれに徹しているので。オオカミも、ああいう遠吠えしている姿とか。彼らの日常が素晴らしいわけです。特殊なことだから価値があるんじゃない。きっと人間もそうなんです。芸をすることが価値じゃない。
枝廣:ありのままで価値があるはず。
坂東:みんなの当たり前の中に、素晴らしさ、キラキラするものが必ずある。そんなことも含めて。等身大の動物たちで、どこまで人の気持ちを引きつけられるのかなというのを、ずっと考えています。背伸びをしても続かないので。
枝廣:いろいろ考えさせられるお話、本当にありがとうございました。
<プロフィール>
坂東 元(ばんどう げん)
旭山動物園園長。
ボルネオ保全トラストジャパン理事。
1961年北海道旭川市生まれ。酪農学園大学酪農学部獣医学修士課程卒業。獣医となり86年より旭山動物園に勤務。飼育展示係として行動展示を担当。97年の「こども牧場」から「ぺんぎん館」「あざらし館」「ちんぱんじー館」「レッサーパンダ舎」「エゾシカの森」「きりん舎かば館」などすべての施設のデザインを担当、数々のアイデアを出し具体化してきた。また手書きの情報発信やもぐもぐタイムなどのソフト面でも係の中心となり具体化,システム化を図ってきた。現在は,ととりの村の設計を手がけている。ボルネオでの活動も本格化しており、マレーシア国サバ州での野生生物レスキューセンターの建設に着手し第一期工事を終える。2009年より現職。
著書に『ヒトと生き物 ひとつながりのいのち 旭山動物園からのメッセージ』(天理教道友社、2014年)、『動物と向きあって生きる』(2008年、角川学芸出版)、『夢の動物園』(角川学芸出版、2008年)、『旭山動物園へようこそ!』(二見書房、2006年)。