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毎年9月に世界各国で持続可能性に取り組んでいるメンバーが集まるバラトングループの合宿に参加しています。このグループの仲間でもある、ポストカーボン研究所のハインバーグさんのお書きになったものを紹介させていただきます。
~~~~~~~~~~~ここから引用~~~~~~~~~~~~~~~
「サステナビリティに関して言えば、この世の中、気の散ったドライバーだらけ」
リチャード・ハインバーグ2018年10月24日
原文URL
https://www.postcarbon.org/when-it-comes-to-sustainability-were-a-society-of-distracted-drivers/
車の運転は危険だ。いやそれどころか、私たちのほとんどが日常行う活動の中で最も危険な活動といえるのではないか。運転には全神経を使う必要がある。そうやってさえ、事態は時に恐ろしく誤った方向に行くこともある。ブレーキが効かなくなるわ、天候のせいで道路がアイスバーンに変わるわ、対向車線のドライバーは居眠りしているわ、そして悲劇が起こる。だが、居眠り運転しているのが自分たちの方なら、悲惨な事故が起こる可能性が跳ね上がる。
だから法律で不注意運転を思いとどまらせている。携帯電話はダメ、新聞や本も読んではならない。助手席の同乗者とのイチャイチャもダメ。捕まれば、多額の罰金が待っている。
これは例え話だなと思ったのであれば、その通り! われわれ人類は皆、事実上地球を「運転」しているのだ。
さらに数千年(あるいは数百万年)の間、地球がおおよそ今のままで続くのか、あるいは、人間の命を支えられず、さらにおびただしい数の他の生き物の生存をも許さないかもしれない状況へと急速に傾いていくのか。私たちはそのことに多大な責任を負っている。
だが、私たちは目の前に伸びる道に注意を払っていない。それどころか、注意散漫なのだ。
私たち個人が注意散漫になるのは、やむを得ずのことが多い。私たちは大抵、生計を立てる必要があるし、家族や友人との時間を作りたいし、多種多様の娯楽は楽しい。
私たちが集団として注意散漫になるのも、同じように重要な理由があるようだ。経済は成長して、雇用が増え、投資利益率が高くなってほしいと思っている。自国の指導者にはテロ行為を防いでもらいたい。そして、軍事衝突になれば、自分たちの側に勝ってほしいと思っている。政治家の中にはヒーローと敵がいて、みんな自分の「チーム」を応援しようと時間とお金を使っている。
肝心なことは、私たちが集団で道から外れて、地球を粉々にしてしまうのであれば、こういったことが何の意味も持たなくなるということだ。
車の運転中に受信するメールは本当に面白いものかもしれないが、死んだりケガをしたりする危険を冒して読む価値はない。同様に、経済や娯楽、雇用やスポーツ、政治はすべて結構なことだし、注意を向ける対象として適している――ただし、まず社会が進むスピードと向かっている方向が安全で正気なものであると保証する限りは、である。
実際には、前方の道に注意を払っている人も少数存在する。生態学者や気候科学者、システムダイナミクスの分析者たちは、これまで数十年間、社会の進んでいる方向をモニターしており、彼らが発する警告は次第に不吉なものになってきている(直近のものを二つ挙げれば、「世界の科学者からの人類への警告(theScientists Warning」と「IPCC1.5℃特別報告書である)
私たちが方向転換しなければ、前途に待ち受けているのは何か? 海水面の上昇。嵐や干ばつ、洪水の激化といった常軌を逸した天候。大量の種の絶滅。農業への脅威。経済の崩壊。要するに、スピードを出しすぎたがための衝突だ。
だが、専門家の「変えるべし」との緊急要請のほとんどは無視されつづけている。
仮に私たちが本当に注意を払っているとしたら、どのような違った行動をとるのだろう?
私たちはサステナビリティ(いかしたエコのふりをするだけではなく、本物のサステナビリティ)を一番の優先事項としているだろう。再生不可能な資源は保全し再利用する。再生可能資源は再生速度の範囲内でしか使わない。自然システムを汚染から保護する。生物多様性を保全する。そして、真のサーキュラー・エコノミーや再生型の経済を目指すだろう。
こういった指針を守る形で営むにはあまりにも経済が大きすぎるということになったら、経済を縮小させるだろう(少し時間をとって、もたらす害を最小限にして、最大の便益を作りだす方法を見極める。そして、これまで数世紀にわたる成長の大もうけから最小の恩恵しか受けてこなかった人々が、小さくなった全体のパイの中で公平な分け前を確実に受け取れるようにする)。そして人口があまりにも多すぎるのであれば、それも縮小するだろう(ここでも、弊害を最小に、プラス面を最大にするための時間をとる)。
そう、これらはすべて、個人に影響を及ぼすであろう。私たちは、子どもを産むかどうかを決めるときに、人口水準について考えるだろう。将来世代が生き残る可能性を損ねるようなキャリア選択は、それが何であれ拒むだろう。地球から取り出す資源に依存する経済には投資しないようにするだろう。日々の選択すべて――交通、食事、衣服、住居――を環境への影響という観点から考えるだろう。
こうするのがとても大変なのはなぜか。
そう、この移行の最も難しいところは、最初に「そうしよう」と決めることだ。そして、いったんそう決めれば、払わなければならないどのような犠牲があろうとも、日々の暮らしに多くの改善も同時に生まれる可能性が高いだろう。
例えば、想像してみてほしい。もっと心を行き届かせる経済であれば、人々は、単に職を追うのではなく、天職を追い求めることができるだろう。または、これほど忙しくない生活であったなら、自分の大事な人たちと過ごす時間をもっと取ることができるだろうと考えてみてほしい。使い捨ての消費財を消費するのではなく、健康と幸福を向上していけるだろう。
いま他のドライバーの気を散らしているものに同じように気を散らしてしまうのではなく、私たちはそれぞれ、計器パネルと前方の道に注意を払うように、自らを鍛え直さなければならない。古い習慣を捨て新しい習慣を身につけるには、努力が必要だ。だが、習慣の中にはあまりにも愚かで、それを変えるかどうかが生きるか死ぬかに関わるものもある。
私たちの注意を散らしているものはそれほど重要なのだろうか? 本当に大事なものに目を向けるより、文字通りあらゆるものを危険にさらす方がいいと思うほど重要なものなのだろうか?
~~~~~~~~~~~~引用ここまで~~~~~~~~~~~~~~~
リチャードの最後の問いに、みなさんはどのようにお答えになりますか?
これは2018年10月にPost Carbon Instituteのウェブサイトに掲載された Richard Heinberg氏の記事
(When it comes to sustainability, we're a society of distracted drivers)の翻訳です。
https://www.postcarbon.org/when-it-comes-to-sustainability-were-a-society-of-distracted-drivers/
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