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つながりを読む

減らして得られる豊かさ~南三陸戸倉の牡蠣養殖の取り組み

2019年07月24日

人間は「増やすこと」が大好きなのですよね。「成長・拡大」が解だと信じていることも多いし、「減少・縮小」への対する拒否感もあったり。でも、悪化の一途をたどる地球環境に鑑みても、足元の日本の人口減少を考えても、「増やしつづけること」にしがみつくより、「減らすことで豊かに幸せになる」方法を考えていく時期なのだと思います。そんな日本と世界へ、「減らしたからこそ豊かになった」素敵な実例をお伝えします。

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減らして得られる豊かさ~南三陸戸倉の牡蠣養殖の取り組み

●はじめに
宮城県北部に位置する南三陸町は、リアス式海岸の美しい景観を有し、昔から漁業が主要な産業の1つとなっています。町に面する志津川湾は、開放的内湾で、水深は深いところで50m以上あり、天然の魚種がとても多い海として知られています。

豊かな志津川湾では、昭和40年代から牡蠣養殖が行われてきました。ほかにも、ワカメ、牡蠣、ホタテ、ギンザケなどの養殖が盛んなほか、アワビ、ウニ、タコ、アキザケなどたくさんの水産物が水揚げされる水産の町でした。

なかでも、山に挟まれた小さな浜をいくつも持つ戸倉地区は、宮城県漁業協同組合・志津川支所の戸倉出張所が置かれ、震災前は年間12億円の水揚げを誇った、水産の町の中核地域でした。

2011年3月11日に三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震が発生しました。最大震度7、南三陸町でも志津川でも震度6弱を記録した上に、大津波に襲われ、600人を超える命が失われ、200人を超える方々が行方不明となりました。全壊した家屋は3,143戸と、震災前の5,362世帯の6割弱にも上ります。

戸倉地区でも組合員の8割の家屋が全半壊し、養殖筏や牡蠣処理施設、漁船のほとんどを津波で流されてしまいました。船が残ったのは1割の人だけという状況下、「皆で頑張ろう」と、国の補助制度「がんばる養殖復興支援事業」を活用して、96名の牡蠣・ワカメ・ホタテ部会と、6名のギンザケ部会を結成し、養殖を再開したのでした。

水産物の主力の1つである牡蠣養殖は、どのように再開されたのでしょうか? 戸倉牡蠣生産部会会長の後藤清広さんにお話をうかがいました。

●悪循環に陥っていた牡蠣養殖
震災前の牡蠣養殖のようすを写真でみていただくとわかるのですが、湾内、島までびっちりと牡蠣養殖用の筏が並んでいました。筏の間隔は15mもないところも多く、ひどいところは5mぐらいでした。なぜ、こんな過密状態での養殖をしていたのか? 

当時、水揚げが低迷する中で、牡蠣の生産は割と安定していました。ワカメなどは海外と競合するなど厳しかったのですが、牡蠣は安定していたのです。それで、もっと牡蠣の生産量を上げたいと考えるようになりました。そうすると、それまで2年で収穫していた牡蠣が成長しなくなってしまったんです。

その時に、「量を減らして品質を上げましょう」とすればよいのでしょうけど、同じ量を生産しようとすると、2年ではなく3年かかるようになります。そうすると当然、その年に出荷できる量が足りなくなりますよね。そこで、また新たに養殖筏を増やす。どんどん悪循環に陥るわけです。

それでもしばらくは、生産量も水揚げも上がってきたのですが、ある時を境に、筏の数と生産量が反比例するようになってきました。完全に良くない状態になってしまった、ということはわかっていたのですが、解決方法もなかった。

「生産量も伸びないので、品質を上げるためには養殖筏を減らしましょう」という話にはなるのですが、減らしても本当にどれだけの効果があるか分からない。減らした方が良いとわかったとしても、「誰がどれだけ減らすのか」という大きな壁があって、結局いつも破談になっていました。

大震災が来たのは、ちょうどそんな時だったのです。内湾を覆っていた養殖筏が全部流されてなくなってしまいました。「非常事態がこない限り、漁業改革なんてはできないでしょう」と冗談で話たりしていたのですが、現実的にそういう状況になってしまったのです。

それまでも、低気圧や地震や津波といった災害は何回も経験していました。地震・津波があると、前年比3割ぐらいの損失。低気圧だと1割ぐらいの損失でしたから、そういった災害を見越して筏を増やしたりしていました。

しかし、今回のように100%何も残らないというようなことは、もちろん想定もしていなかった。当初は、養殖自体無理だろう、再開はできないだろうという感じでした。施設というのは、何十年も積み重ねて設備をしているものなのに、それが全部ない。漁船もない。海岸沿いの地区なので、多くの組合員の家もなくなってしまった。家もなし、船もなし、設備もないで、どうやって再開するのか、無理でしょうという状況だったのです。

しかし、調べてみると、海の方は養殖再開が可能な状況であることがわかりました。海底は瓦礫でいっぱいなのだろうと思っていたのですが、津波の引き潮が強かったので、海底は思ったよりきれいになっていたのです。ただ、資金の問題や、どうやって再建するか、そもそも、やるのかやらないのかという話し合いをしないといけない、という状況でした。

そんな時、漁業組合の役員の改選期となりました。私自身はもうここでの漁業を辞めようかなと思っていたのですが、部会長をやってほしいと頼まれました。最初は断ったのですが、こんな状況で引き受ける人もいないし、ともかく再建しましょうということで引き受けました。

漁協の施設が流されてしまい、大勢が集まって会議をする場所が無かったので、公民館を借りました。そこに60人ぐらいが集まって議論しました。漁業をやめると言う人もいるし、やると言う人もいる。今後の再建についても、これまでと同じように過密養殖をやるのか、違う形にするのか、相当議論しました。

「収穫まで2年も3年もかかる間に低気圧に来てやられるかもしれないし、品質の悪いものを採っていては将来がない。20年後、30年後を見越して、養殖する量を減らして、その代わり1年で生産できるシステムを何とかつくりましょう」ということを提案し、みんなで管理するという形に落ち着きました。

その時は、どれくらい減らしたら1年で収穫できるようになるのか、そもそも減らしてうまくいくのか、全然見通しもありませんでした。それでも、何とか組合員の了承をもらって「減らす」ことに決まりました。当時、多い人は養殖筏を50台ぐらい所有しており、少ない人は7、8台と、バラツキがありました。渋々了承してもらうという形でしたが、「養殖筏を減らす」という取り組みはここで始まったのです。

それから、毎日毎日、どうやったらよいのかを話し合いました。万が一収入が減ったときはどうするか、今まで50台の筏でやっていてもそれほど儲かってもいないのに大丈夫か、など、年間100回ぐらい会議をやり、いろいろぶつけ合いました。

●養殖筏を3分の1に減らす
そうやって会議をする中で、最初から「筏の数を3分の1にしましょう」ではなくて、「牡蠣が十分に育つには、筏の間隔は40mぐらいは必要でしょう」という議論になりました。かつて1年でも採れた時期があるということで、そのときの間隔をとって測定したら40mだったので、これでやってみよう、ということになったのです。

間隔を40mに広げるとなると、使える漁場は限られているので、震災前は千何百台入っていた筏が300台程度しか入りません。以前の3分の1よりも少なくなります。一人あたりで割ってみると、8台弱です。

それでは大変だ、不安だということで、「40mではなく30mにしたらいいんじゃないか」「もうちょっと狭くできるんじゃないか」という話も出ましたが、「40mで1年間やってみて、駄目だったらもう1回考えましょう」ということになりました。「1年で部会長をクビになってもいい。やりましょう」と、話を進めました。

当時は、種付けはどんなに遅くても5月か6月くらいまでにして、収穫は早くても次の年の10月、つまり最低でも16カ月ぐらいはかかっていたのですが、この時は通常より遅く、8月末までに残っていた種を種付けしました。

その4カ月後の12月に、このプロセスを支援してくれていた(公財)世界自然保護基金ジャパン(WWFジャパン)の担当者が、「4カ月でどれくらい成長したか、試験的に見てみましょう」と言ったのです。あまり成長しなくても嫌だし、「まだ早いんじゃないか」と言ったのですが、「いや、試験なので。見てみましょう」と。

それで、ふたを開けてみたら、4カ月で20グラムになっていたんです。今まで3年かけて15グラムにしかならなかったのが、4カ月で20グラムです。これは衝撃的でした。生産者の私たちが一番驚きました。「これならいけるんじゃないか」と少し自信を深めることができました。

そして1年後には56グラムになりました。今まで3年置いても4年置いてもこんなに成長しなかったのが、たった10カ月でこんなに大きくなった。これはすごいなと思いました。このようにして、震災前は3年かけて生産していたのを、1年で、しかも実が大きく、味の良い牡蠣を生産できるようになりました。結果が早く出たので、みんなも納得してくれました。

ちなみに、過去は、筏の中央部に行くほど実の入りが悪くなって、中央部の牡蠣は全然出荷できませんでした。ところが今は端から端まで、全部平均的に実が入ります。同じ湾で養殖をしている隣の漁協では、30mぐらいの間隔で筏を置いていますが、2年待たないと生産できません。40mが大事というのが後からわかったとも言えます。

うちの漁協では、震災前は牡蠣の養殖筏が千何百台入っていて、200トンぐらいの生産量で、金額は2億ちょっとくらいでした。筏を3分の1以下に減らしたので、以前と同じ生産量は無理でも、150トン程度あがって、金額も2億を超えればいい、というのが目標でした。10年はかかるかなと思っていましたが、3、4年で目標を達成し、驚きました。

現在の生産量は150トンを超えています。経営体あたりの生産量も、以前は1800kg弱だったのが、今では3.5トンと2倍です。今までは加工用だけだった春に、生食用の牡蠣を出荷できるようになったことも、売上につながっています。

また、筏の数が3分の1になったので、各経営主体の経費も下がりました。経費も3分の1というわけにいきませんが、4割は経費が削減できるので、所得はその分上がります。

一番大きいのは、労働時間の短縮です。以前は1日10時間もびっちり剥き作業をしていました。日曜日も作業でした。でも今では、1日6時間の作業で、日曜日も完全に休みになりました。生産性が上がっているので、問題ありませんし、働き方改革にもなったというわけです。

また、筏の間隔を広くしたことのメリットはほかにもありました。風で筏が寄ってきたりするのですが、間隔がありますから、船が通るのも安全です。夜に絡んだりすると動けなくなりますから。暗いときでもGPSで航跡を頼って運転できるので、霧の時でも安全になりました。

かつては、台風や低気圧がきて、どこかの筏が被害を受けると、間隔が近いので、隣にぶつかってドミノ式に被害が伝染していました。今は間隔があるので、被害も広がりません。また、このあたりには、春先に必ず発達する低気圧があるのですが、1年の生産だと、その時期までは7~8割方、生産が終了しているので、被害が少なくてすみます。

1年の生産だと、筏の重みがまるで軽いんです。1年で20トンの重みがあって、2年たつと40トンじゃなくて60トンぐらいと非常に重くなります。その重さをどれだけ減らすかによって、災害のリスクは大きく下がります。重い時期を少なくすることと、収穫を早くすることによって、自然のリスクにも対応できます。低気圧も津波も必ず来ますので。

今まではロープを太くしたり、アンカーを増やしたりして対抗していたのですが、対抗するのではなくて、そういった自然も受け入れて、いかに乗り切るか。自然のサイクルでは津波も低気圧も必要なものとして、環境と共生する方向に変えていく。無理に自然と争っても勝ち目がないですし。

何より、品質がどんどん良くなりました。以前は宮城県でも最低レベルだったのですが、今では宮城県でもトップクラスの品質です。現在の生産量でも、宮城県全体の金額を引っ張るくらいの位置まで来ています。夢のような状況です。

かつては、地元の業者さんも、「品質が悪いから」といって敬遠していましたが、やはり地元の業者さんも、地元で品質の良いものが採れれば売りたいと当然思っています。今は地元の業者さんも一生懸命販売してくれますし、地域の経済も活性化していてよいなあと思います。

これだけ効果が出たので、今は「増やしましょう」と言う人はいません。もちろん、もっと筏を欲しい人はいるので、空きがあった場合は増やせるというのもありますが、現在の40mの間隔を「20mにしましょう」と言う人は誰もいなくなりました。

●ポイント制で養殖区画を割り当て直す
筏の総数を3分の1に減らすことにしたので、37人の組合員の平均台数は8台となりました。最高でも10台と決めたので、今まで50台持っていた人も一気に減ることになります。

それまでは、「これだけ筏を持つ権利」、つまり養殖をやる権利は、代々譲り受けてきた既得権でした。それを今回、全部返上してゼロにしてもらったのです。減らした総数をどうやって組合員の間で分けたらよいかが非常に難題でした。

そこで考え出したのが、「ポイント制」です。家族構成や後継者のあるなしでポイントを決めて配分するしくみです。後継者がいる世帯は60ポイントもらえます。2人家族は46点、1人家族は40点です。

そして、養殖するものにもポイントを決めました。ギンダケは6点、牡蠣は4点、ホタテ・ホヤは3点、ワカメ2点です。そして、自分の持ち点だけ養殖をやってもらいます。たとえば、40点の持ち点だったら、牡蠣だけなら10台分です。46点なら牡蠣10台とワカメ3台など、ポイントの範囲内で組み合わせて養殖ができます。このような仕組みは日本のどこにもないと思います。

このポイント制にもかなり反対がありました。特に、減らされる人には面白くない制度ですよね。でも、「やってみて、どうしても駄目なら見直しましょう」と言い続けて、毎年見直して課題を解決してきました。使える漁場は限られています。以前は勝手に空いている所でやっていましたから、「足りなくて生活できなかったら、筏を入れる」と言っている人もいましたが、「まずはやってみましょう」ということで、何とか了承をもらってスタートしました。

●日本ではじめてASCを取得
戸倉の牡蠣養殖場は、WWFジャパンと南三陸町の支援を得て、2016年3月、国内ではじめて、ASC(Aquaculture Stewardship Council:水産養殖管理協議会)認証を取得しました。

ASCの理念は「環境と地域社会に配慮した持続可能な責任ある養殖業」で、(1)自然環境や資源を持続可能な状態で利用しているか、(2)養殖漁場からの環境負荷を軽減しているか、(3)労働環境や地域社会に配慮して運営されているか、の3つのポイントにより審査が行われます。

そういう認証があることをWWFジャパンの人から教えてもらって、「取りましょう」と言った時は、ほとんどの組合員が反対しました。ASCを取るといろいろ規制があったり、書類を提出したり、面倒くさい。ましてやお金もかかって、効果もあるかないかわからない、と。漁業者というのは、規制されるのが嫌な人が多いので、反対は当然ありました。それでも、「やってみましょう」と大変だったけど、何とか取得できました。

ASC認証を取ったからといって高く売れるようになったという実感はありませんが、ただ大事なことは、以前だと8割がふつうの値段で売れても、売れ残った1割2割は買い叩かれていました。それが、全部売れるようになったのです。平均単価は変わらなくても、在庫が残らなくなったので、年間では売上が上がるようになりました。消費者も、高いなら買わなくても、同じ値段だったら認証のものを買いましょう、ということです。

認証取得から2年以上たって、「ASC認証のものはないですか?」と需要も増えてきたので良かったと思っています。宮城県でも、私たちのあとに、3つの漁協が新たに認証を受けたので、宮城県は半分以上ASC認証です。販売も好調になりましたので、広がってきました。

2回目の認証審査は今年1月にありました。「反対の声が出るだろう」と覚悟していたのですが、2回目は誰も反対しませんでしたし、審査費用も受益者負担で当然だということになりました。これも驚きです。日本で最初ということで、注目もされていますし、日本初だという誇りも徐々に生まれてきて、みんな好意的になりました。ちょっとでも褒められることがあれば、やりがいにもつながりますし、反対もなくなります。

何より安心して生産できるというのが一番です。品質も良くなってきています。ASCは品質を保証するものではありませんが、「さすがASCの牡蠣はおいしいね」とか言われるようなのができてきていて、一部は高級店に売られたり、幅広く取り扱ってもらるようになりましたし。

認証を受けるだけの環境のいいところでつくっています。環境が悪かった時は、ノロウィルスで検査に引っ掛かったりしていましたが、今では宮城県で一番安心といってもいいと思います。ほとんどアウトにならないで合格するようになりましたから。それも環境に配慮した効果だと思います。

安心・安全の面だけでなく、味も1年ものは甘みがあっていいと評価されてきています。今までは、量を優先しようという考えでしたが、今ではもっといいものをつくろう、もっと品質を上げようという取り組みが多くなりました。

●若い漁業者が増える
震災直後、8年以上前の組合員の集合写真を見ると、若い人がひとりもいなかったことがわかります。30代どころか40代もいなかった。平均年齢は60才くらいだったと思います。

しかし、ポイント制で後継者のいる世帯により多くの筏を分配するようになったことで、若い人が増えてきたのです。後継者問題は昔からあって、どうやったら若い人が増えるのかが大きな課題だったのですが、今では20代、30代が増えてきて、後継者もできてきました。

品質のいいものをつくったり、働きやすい労働環境に変わったり、ASC認証を取ったり、仕事が楽しく、いいものをつくれるようになれば、若い人はやりがいを感じて入ってくるんだなと、逆に教わっている気持ちです。以前は70代、60代、50代ばかりで、若い人がほとんどいなかったのが、今はバランスよく増えるようになりました。

●何もなくなったからこそできた
「生産額も上がり、労働時間は短くなり、誇りが生まれ、若い後継者が増えるなど、いいことづくめなのに、なぜほかの漁協に広がらないのか?」とよく聞かれます。「減らす」ということは、できればそうやりたいとか、やりましょうという思いがあっても、実際にはなかなか難しいことなのです。

私たちには、震災というきっかけがあって、何もなくなったからできましたが、いったん沈めた筏をもう一回引き上げて、間隔をもっと広げましょうというのは、至難の技です。何もなくなった時がチャンスです。これを逃したら駄目だっただろうと思います。

企業の社会的責任(CSR)を漁師に求めるというのは不可能だと思われていました。「魚を逃がしたら隣のやつに取られる、逃すな」ではなく、「40mの間隔を空けましょう、隣のことも考えましょう」というのですから、最初は「そんな甘いことをやって、最初にやられてしまったらオシマイだ、そんなことできるか」と言われました。「そんな甘っちょろい漁師なんかいない」とね。

でも、うちの漁協はそこを変えた。変えたらどんどん良くなった。前みたいに、隣とも張り合って負けないように、蹴落として奪い合っていたら、誰もいなくなってしまったでしょう。


~~~~~~~~~~~~~引用ここまで~~~~~~~~~~~~~


後藤さんは、船を出して、養殖筏のところまで連れていってくれました。隣の養殖筏まで距離があるので、広々とした養殖場です。後藤さんがガラガラとロープを巻き上げると、大きな牡蠣がいっぱいついています! その場でナイフで殻を開け、「どうぞ」と。乳色のぷるんとした牡蠣は甘くてとってもおいしかった。

話し合いを続け、「だめだったら戻せばいい、試しにやってみよう」と、「減らすこと」の恐怖を乗り越え、その結果、生産額も上がり、労働時間は短くなり、誇りが生まれ、若い後継者が増え、「本当に増やしたいものを増やすことができた」漁師さんたちの勇気と示してくれている実例を多くの方々に届けたい!と思いました。

 

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