東京大学名誉教授・山本良一先生の新たな論文をご紹介します。
円状に引いた惑星的境界(プラネタリー・バウンダリー)の内側に、持続可能な社会が満たすべき最低限の"社会的境界"(ソーシャル・ファウンデーション)の縁を引く。その二つの境界の間をドーナツに見たて、これを人類にとって安全で公正な活動空間と捉えて"ドーナツ経済"と呼ぶ考え方があります。
今回の論文は、そのドーナツ経済のさらに内側に倫理的境界(エシカル・バウンダリー)というものを設定して、その倫理的境界の転換点を集団で越えていくと考えるのはどうだろうか、と提案するものです。
2025年4月2日
東京大学名誉教授 山本良一
地球から毎年抽出される資源の量は莫大である。1972年に286億トンだったものが、2021年には1,014億トンに達し、2050年には1,700億トン~1,840億トンに達すると予想されている。この世界の天然資源の採取と加工が、地球全体の温室効果ガス排出量の要因の55%以上、陸域の生物多様性の損失と水ストレス要因の90%以上、粒子状物質による健康影響の最大40%を占めていると指摘されている(世界資源アウトルック2024)。世界は2050年までにカーボンニュートラルを、2030年までにネイチャーポジティブを目指しているが、資源消費の大幅な増加傾向はこれと矛盾する。
2009年にJohan Rockstromらによって提唱された惑星的境界(Planetary Boundaries)はその後改訂を重ね、2023年にKatherine Richardsonらによって次のように評価されている。9つの惑星的境界のうち6つが突破されている。
惑星的境界(Planetary Boundaries)
突破された境界
気候変動(Climate change)
生物圏への健全性(Biosphere integrity)
新規人工物質(Novel entities)
陸域システム変化(Land system change)
生物地球科学的フロー(Biogeochemical flows)
淡水の変化(Freshwater change)
未だ突破されていない境界
成層圏オゾン層の欠乏(Stratospheric Ozone depletion)
大気エアロゾル負荷(Atmospheric aerosol loading)
海洋酸性化(Ocean Acidification)
社会的境界
すなわち現代社会はエコロジカルに持続可能ではない。それでは社会の方はどうであろうか。Kate Raworthは惑星的境界の内側にサステナブルな社会が満たすべき最低限の"社会的境界"(RaworthはSocial Foundationと呼んでいる)を提案し、そのドーナツの内側が人類にとっての安全で公正な活動空間であると考えた(ドーナツ経済)。社会的境界として考えられたのは、エネルギー、水、食料、健康、教育、所得及び仕事、平和と公正、政治的発言力、社会的平等、ジェンダー平等、住宅、ネットワークである(図1)。
惑星的境界(エコロジカルな天井)の外側へ行けば行くほど、境界値を超え(オーバーシュートする)、エコロジカルに持続可能ではない。社会的境界(社会的基礎)の内側へ行けば行くほど未達成であることを示し、社会的に持続可能ではない。この2つの円にはさまれたドーナツ状の空間が人類にとっての安全で公正な空間であるというのがKate Raworthの主張である。惑星的境界と社会的境界のそれぞれの項目を満たすことは国連が推進するSDGs(持続可能開発目標)と密接に関連していることが知られている。
ドーナツ経済を達成した国があるかどうかについては先駆的な研究が行われている。D W O'Neilら(2018)は生態学的限界内で最低限の社会的基準を満たす国はないと述べている(A good life for all within planetary boundaries)。A L Famingら(2022)は、各国は社会的進歩を遂げるよりも早く、生態学的限界を超えていると結論している(The social shortfall and ecological overshoot of nations)。H Schlesierら(2024)はまともな暮らし(Decent Living Standard)ならば惑星的境界の枠内で提供することは可能としている(Measuring the Doughnut: A good life for all is possible within Planetary Boundaries)。
ドーナツ経済を達成した国がまだ無いという原因は世界の富裕層による資源の過剰消費、中間所得層の消費拡大、世界人口増加(2024年に世界人口は82億人を突破し、1分間に140人ずつ増加中)による消費増加にエコイノベーションや社会システムの転換が追い付いていないと分析されている。富裕層が自発的簡素な生活を選択して過剰消費を止め、中間層と共に持続可能消費をする以外に、貧困層の消費拡大をしながら現在の気候と環境の非常事態を突破することは困難である。
表1
G Kallisら(2025)は惑星的境界内での福祉の科学としてポスト成長を論じ表1のような政策を挙げている(Post-growth: the science of wellbeing within planetary boundaries)。P Tianら(2024)は惑星的境界内でのグローバル消費を維持するという論文で富裕層の過剰消費を論じ、効果的に抑制すれば世界の消費を惑星的境界内に収めることができるとしている(Keeping the global consumption within the planetary boundaries)。そこでドーナツの内側に倫理的境界(Ethical Boundary)を設定し、そのしきい値を集団で超える(倫理的転換点を超える)ことを提案したい。
ここでは次のような倫理的境界を提案する。
倫理的境界(候補)
足るを知る(Knowing Contentment)
自発的簡素(Voluntary Simplicity)
持続可能消費(Sustainable Consumption)
自然資源の公正な共有(Fair Sharing Natural Resources)
生態系のスチュワードシップ(Ecological Stewardship)
気候正義(Climate Justice)
図1. Kate Raworthによって提案されたドーナツ経済
図2. Kate Raworthのドーナツ経済に倫理的境界を加える
Elgin Duaneは「Voluntary Simplicity: Toward a way of Life that is outwardly simple, inwardly rich」を書いている。一方、神学者のSalli McFagueはVoluntary SimplicityからさらにVoluntary Povertyへと進め、「Life Abundant, Rethinking technology and economy for a planet in peril」を執筆した。自発的簡素とエシカル消費によりサステナブルな社会への転換を急ぐことについては大きな反対は無いのではないか。
I M Ottoら(2020)は地球気候の安定化のためには、気候システムが転換点(Tipping Point)を超える前に、社会の側が社会システムの転換点を超えて気候転換点を超えないようにするべきだと説いた(Social tipping dynamics for stabilizing Earth's climate by 2050)。そこで取り上げられた社会システムの転換要素(Tipping Elements)は次の通りである。
エネルギー生産と貯蔵システム(脱化石燃料)
住居(カーボンニュートラル都市)
金融市場(化石燃料ダイベストメント)
規範と価値のシステム(化石燃料の倫理的意味の認識)
教育システム(気候教育)
情報フィードバック(GHG情報開示)
社会的転換に要する時間の早いもの(情報フィードバックや金融市場)から取り組むべきとしている。倫理的転換点を超えるためには例えば次のような事について議論しなければならない。
倫理的境界の転換点を超えるために
【参考文献】
エシカル消費により世界の資源消費を地球の限界内に抑制する
山本良一、2025年1月22日