「ノーベル平和賞受賞者のケニアの副環境相、ワンガリ・マータイさんが来日中に『もったいない』について話していましたね」「最新号の首相官邸からのメルマガ「小泉マガジン」の首相メッセージも「もったいないの心」でしたよ」など、教えていただきました。
(余談ですが、「枝廣サンが教えてあげたのですか?」といって下さる方もいましたが、残念ながらそうではありません。(^^; 「もったいない」にしても「バックキャスティング」にしても、この数年間で講演や執筆で数万人にメッセージを発していますが、同時多発的な気づきや認識のひとつだと思っています。数年前に「バックキャスティング」と言っても、必ずといってよいほど「え???」と言われました。そう思うと、数年後には、あちこちであたりまえのように「システム思考」という言葉やアプローチが使われるようになっているだろう、と思います。ナマズの予感。^^;)
「もったいない」についてのコメントのいくつかを、了解をいただき、ご紹介します。
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私の地元三条にはそろばん供養があります。珠算(そろばん)が盛んな地域で、毎年8月8日(パチパチの日・そろばんをはじく音からだそうです。パチンコと一緒とは驚き)に中心市街地のお寺にあるそろばん塚の前で供養が行われます。
三条ではどうであったか忘れましたが、刃物の産地では包丁供養、はさみ供養が行れると聞いた記憶があります。私の子どもの通う幼稚園ではおもちゃ供養が年中行事にあります。
平安時代末の今昔物語などの説話に道具を供養しないでいたらお化けになって出てくる話があったなあと思い出しました。百鬼夜行図という妖怪の大行進する絵巻物に壊れた道具の妖怪がユーモラスに描かれています。
鎌倉時代初期の天台宗の座主・慈鎮の歌に
「何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
というのがあります。
同時代の歌謡集「梁塵秘抄」にも
「仏は常にいませどもうつつ(現)ならぬぞあわれなる 人の音せぬあかとき(暁)に静にいめ(夢)に見えたもう」
という歌があり、日本人の神仏を気配で感じとる感覚を面白いなと思っていました。(歌詞は諳んじていたのを書いたので間違っていたらごめんなさい)メルマガを読んでそんな事を思い出しました。
毎日の雪掻きに疲れ気味の新潟の冬の生活です。スコップが壊れてしまったのでこれも供養しないで捨ててしまうと化けて出てくるでしょうか?
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「百鬼夜行図」、教えていただき、私も思い出しました。どういう絵巻かは、ウェブで検索すると見られるサイトがいっぱい出てきます。たとえば、西尾市岩瀬文庫コレクション
http://www.city.nishio.aichi.jp/kaforuda/40iwase/collection/hyakki/hyakki.html
付喪神(つくもがみ)ですね。作られて100年経った道具には魂が宿り、人の心を惑わすというそうですが、それが付喪神です。京都大学附属図書館に所蔵されている色鮮やかな挿絵のついたお伽草子のなかに「付喪神」があり、電子図書館でネットで読む(見る?)ことができます。便利ですねぇ!
http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/tsukumo/tsukumo.html
もうお一方、住職さんからのコメントです。
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大河内秀人@江戸川・寿光院 です。楽しくそしてしみじみと読ませていただきました。京都の宗教的な環境が枝廣さんの思いの原点なのかと感じました。そこで僭越ながら「供養」を「生業」としている立場から、勝手なコメントをさせていただきます。
仏具や人形のようなスピリチュアルなものに限らず、すべてのものに「いのち」を感じるという日本人のメンタリティは、四季という循環と再生のリアリティのなかで、アニミズムや仏教思想を背景に深まっていったことは間違いないと思います。
「供養」という行為に至るのは、感謝というよりむしろ罪とか畏れという、漠然とした不安がそうさせた面も強いとは思いますが、いずれにしろそこにいのちを感じるのは「願い」があるからだと思います。まさに丹精こめてつくられ、天地が育み、単なる偶然の積み重ねではない、連綿と繋がってきた願いの結実こそがいのちの正体だととらえるのです。
話は飛びますが、「いただきます」というのも日本特有の言葉ではないでしょうか。これは作ってくれたりご馳走してくれた人に対して言うものだと思われがちですが、本来は食べられようとしている「いのち」に対していう言葉です。
それが自分の口に入るまでの因果に思いを馳せ、自分がその命を頂くのに値するかを自問し、余計に貪(ぬさぼ)ることなく、健全な身体で、正しい道を修める意志をもって「頂く」わけです。そのいのちを頂く罪を正面から見据え、その頂くいのちの願いを自分の中で力にしていくのが供養だといえます。
さて、ここからが「宗教」の話です。涅槃経の「一切衆生悉有仏性」という教えからきたのか、はたまた八百万の神的な直感からきたのかはともかく、単にすべてのものにはいのちがあるという「宗教観」「宗教心」に止まることが、日本人の危険性だと思います。私が坊主の説教で、「だから感謝しなさい」と終わる説教を聴くととても腹が立ちます。(まだ悟ってないからかな)それはまさに支配者の道具になるからです。
その道具にならない主体性が、本来の人間にとっての宗教です。キリスト教も権力の道具になってきた歴史はありますが、個人の神に対する絶対的な信仰が基本であり、そこには邪悪な権力が付け入る隙はないはずです。仏教で言えば、おかげさまとかつながりのある他の全てのものへの感謝とかではなく、あらゆる他者のいのちの願いを背負った自分の可能性(仏性)と責任に目覚め、理想(ビジョン)を持って生きる「生き方」として宗教を語ってもらいたいというのが私の願いです。
仏教の目標は覚りであり浄土です。それは知性と理性とそして行為によって到達されます。日本人の心というと、桜の花が散り行く儚さを美学として、いきなり大和魂に飛んでいくのは、なんとなくの宗教心が権力に支配されやすいことの現われではないでしょうか。ビジョンと意志が薄弱なために、平和憲法を捨て、戦争屋に絡めとられてしまうのではないでしょうか。
鎌倉の民衆は、西方浄土、法華の浄土をめざして念仏や題目を唱えるという形で、自らが主役に躍り出ました。今の私たちには、本来、それ以上のうねりをこの世界に起こせないはずはありません。最終回の「もったいある生き方あり方」に期待いたします。
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私もよく講演などで「いただきます、というのは『あなたの命をいただきます』ということなのですよね」というお話をしますが、
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そのいのちを頂く罪を正面から見据え、その頂くいのちの願いを自分の中で力にしていくのが供養だといえます。
<<
供養の理解が少し深まった気がします。大河内さんの寿光院のサイトは、仏教について、また熱心に活動されている平和関係の情報や記事なども、とても充実しています。 http://www.juko-in.or.jp
それから、関連した(少なくとも私の中では)記事をご紹介します。ビジネス雑誌「エルネオス」に「枝廣淳子のプロジェクトe」という連載をさせてもらっており、毎月、「エコはエコ」(環境に取り組むことがビジネス上のプラスにつながっている)の企業事例を紹介しています。雑誌の購読や問い合わせ先はこちらです。http://www.elneos.co.jp
今年1月には、年始ということで、企業ではないのですが、「遠く先を見越していま動くことの大事さ」を伝えたくて、昨年夏に取材させてもらった伊勢神宮の話を書きました。「生まれ変わり続けることで永久のものとなる」発想や価値観が、「モノ」よりも「型」を重視する文化につながっているように思います。
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第8回:伊勢神宮 ―200年後を見据えた経営の教えるもの―
今回のプロジェクトeでは、ちょっとユニークな組織の取り組みを紹介しましょう。
三重県伊勢市にある伊勢神宮は、昔から「神宮」といえば伊勢神宮といわれるほど、古くから国民に尊ばれている神宮です。皇室の御祖先の守り神として仰ぐ天照大御神をお祭りする内宮と、衣・食・住・広く産業の守り神として崇敬される外宮があります。
この伊勢神宮で、20年に一度、社殿や神宝類、ご装束類のすべてを一新して大御神のお遷りを仰ぐ式年遷宮がおこなわれていることをご存じの方は多いでしょう。
この式年遷宮は、どのくらいの歴史があるか、ご存じですか? 1300年です! 20年毎に遷宮しつづけるという仕組みは、実は日本でも例がありません。
なぜ20年という周期なのでしょうね? 「最初に遷宮を始めた天武天皇が定めたため」だそうです。以来の20年ごとの遷宮によって、日本の文化のルーツを伝え、伝統技術や匠の技を脈々と保存継承しているのです。
「どうして遷宮する必要があるのだろう?」と不思議に思いませんか? その答えは、伊勢神宮の神殿の形にあります。神殿は、大聖堂などをイメージする外国の人には拍子抜けするほど、シンプルな造りです。弥生時代の穀物倉庫の形を模しているのです。
穀物の倉庫には、翌年播くための籾種や飢饉用の備蓄を入れます。翌年植え付ける籾種がなくなったり、飢饉用の備蓄がなくなったら大変なことです。穀物倉庫は、国民のいのちを守る役割を担っていたのです。
穀物倉庫は、十数本の直埋めの柱と萱の屋根でできていますから、20〜30年ごとに建て替える必要がありました。しかし、使えなくなってから建て替えるのでは、いのちを守ることができません。ですから、定期的に建て替えるしきたりができたのでしょう。その記憶が、いのちを守る建物の象徴でもある伊勢神宮の遷宮につながっているのです。
遷宮のために、神宮の神殿には隣接する二つの用地があり、交互に一方の敷地に神殿が建てられます。そして、1回の遷宮には、約1万本もの造営用材が必要となります。20年ごとに1万本以上もの檜をどのように確保してきたのでしょうか?
伊勢神宮は、世田谷区に匹敵する5,500ヘクタールもの広大な敷地を持っています。うち90%以上が山林です。この素晴らしい伊勢神宮の森づくりは、反省の上に進められてきたのです。
かつては、御杣山から遷宮用の木材が切り出されていました。江戸時代には現在と同じく年間700〜900万人がお参りをしていたので、門前町に二、三泊する参拝者のための薪をまかなうためにも、山が切り開かれ、木がなくなってきました。
江戸幕府は、木曽の尾張藩の森林を遷宮のための御用林としましたが、江戸時代の終わりに、尾張藩の御用林は皇室財産となりました。そして第二次世界大戦後には、皇室財産だった神宮備林は国有林になりました。伊勢神宮の遷宮用に優先的に木材を購入することができますが、それでも「専用」ではなく、金銭的にもかなりの負担となります。
このように、遷宮のための用材の確保を国に依存できなくなる前に、伊勢神宮では「遷宮用の森林は自分たちで持っているべきだ」という認識が行動につながっていたのです。
今から80年ほど前の大正時代に、内務省の一部分であった神宮司庁が、神宮森林経営計画を立て、植林を始めました。名目上の目的は「景観の保持及び五十鈴川の水源地涵養」でしたが、山の南面に檜も植え始めました。
この森林経営計画は、なんと200年計画でした。200年後には、半永久的に自分たちの森からすべての遷宮用材を供給できる体制づくりをめざしたのです。まだ実際の危機が訪れるまえに、そして200年先を見据えての資源管理の経営に乗り出す――これはすごいことだと思うのです。
そのおかげで、平成25年におこなわれる第62回の次期遷宮時には、必要な用材の4分の1を、久々に宮域林からまかなうことができるそうです。自分たちの森林が育つにつれ、20年ごとに「自分たちでまかなえる割合」は増えていくでしょう。先祖たちが計画をした200年よりも前に、100%まかなえる日が来そうだといいます。
遷宮はとても大きな行事なので、8年かけて準備をします。木材は4年かけて準備します。まず、伐採後2年間、貯木池に沈めます。水中乾燥といって、木の余分な油を抜くためです。その後1年間、野ざらしにし、四季折々の厳しい自然条件に木を慣らします。そして製材したあと、和紙をかけて遷宮の時を待ちます。
このように、長い時間をかけて準備をしますから、割れないし反らないしっかりした木材になります。「いのちを守る」という遷宮の主意にかなうよう、準備されるのです。
では、20年たって、役割の終わった古殿の木材はどうなるのでしょうか? 神殿には、建物を両側でがっちりと支えている棟持柱が4本あります。長さ11メートルほどのこの柱は、遷宮後は宇治橋の鳥居として、20年間伊勢神宮を守ります。さらに20年たつと、桑名の七里の渡しと関の追分けの鳥居として、さらに地域の人たちを守る役割を担います。一片たりとも無駄にしないという精神で、棟持柱以外の部分は、全国の神社の建て替えの申請に従って分けられます。
「永久の建物」をめざして、大聖堂や大きな石のお城などの不朽のものを作るのではなく、無駄なものを削ぎ落としてシンプルにし、「建て替えつづけることで永久の建築物にする」という発想は、世界にも類を見ません。なかなか英語に訳せない「循環」の思想の原点のひとつを、200年先を見据えた経営が支えているのです。
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欧米の大聖堂やお城(のあと)などを見ると、がっしりした石などで作られ、「そのときに作ったものを永久のものにしよう」という感じですから、欧米の人々にとっては、20年ごとに立て替えつづけている小さな木組みの神殿というのは信じられないかもしれません。
でも、どんなにがっしり作っても永久に存在し続けるものはありません。一方、生まれ変わりつづけているものは、1300年たってもそのままの姿なのですよね。「永久って何だろう?」「永久に残るものって何だろう?」「本当に大事なものって何だろう?」と考えさせられ、面白いなあ!と思います。
それから、前回の「もったいない話」に、もっと詳しく知りたい、というメールもいただきました。あの連載の第1〜2回にもありますし、メールニュースでは、[No.74] で初登場以来、100番台〜200番台で「もったいない」の話がたくさん展開しています。メールニュースを精選して掲載した2冊の本にも載っています。
『エコネットワーキング!』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4907717709/junkoedahiro-22/249-2919328-9475557
『地球のセーターって、なあに?』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4907717725/junkoedahiro-22/249-2919328-9475557
それから『 7分後、7年後の幸せなあなたへ-エコから学ぶ「自分マネジメント術」』にも、毎日のくらしや人生での「もったい」や「もったいない」を考えるきっかけをさまざまな切り口で書きました。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022579269/junkoedahiro-22/249-2919328-9475557
この本の目次です。ご参考まで。
はじめに
Ⅰ 人生は選択の連続である
ちりつも大作戦
タダより高いものはない?
わが家の自給率アップ作戦
人生は選択の連続である
「知っている」より「行動する」こと
エコライフのキーワード
お金の流れを変えよう!
三位一体でぐんぐん進める!
Ⅱ 心軽やかに生きるコツ
シェアリングで軽やかな生活を手に入れる
「松」「竹」「梅」方式でメリハリのある時間を過ごす
あの人に「ウン」と言わせる技術
「いのち」に規格はいらない
まとめて評価しないこと
モトから絶たなきゃダメなものもある
キーワードは「デカップル」
いったん決めたら!ではなく
ベター・ザン・ナッシングで行こう!
英語にならない「もったいない」
Ⅲ 「スローライフ」ってなあに?
スローライフってなあに?
あなたの幸せの商品依存率は?
時間がかかることはイケナイこと?
成長しつづけることがいいワケじゃない
キャンドル・モーニングとろうそくの流れ買い
いち抜〜けた!
山菜取りのルール
自然に学ぶ
Ⅳ すぐに役立つエダヒロの知恵
おひさまパワーは偉大なり
わが家の台所事情
小さいものは小さいなりに
新幹線のなかで開くマイ弁当箱
「目的」はなに?
整理整頓の鍵は「手元分別」
おせち料理のトリを飾る
限定版の個人通貨を作ってみました
エダヒロ流ゴミ削減術
Ⅴ 視点を変えると解決策が見えてくる
バックキャスティングで進もう
どのびんでもいいじゃない?
目に見えないところも考えに入れて評価する
ほしいのは、モノではない
むやみにばらまくな〜!
しくみ作りの効果
あとのことを考えてからはじめる
だれかが払っている
ビジョンもしくみもない!
あたりまえの世界から一歩踏み出そう
つながりを取り戻すことこそが解決策
Ⅵ 目に見えないつながりを想像してみよう
いま・ここ
目に見えるもの、見えないものbr> 自分の心とつながること
未来は現在からは見えない
もう一度、地球とつながってみよう
ハチドリになろう!
あとがき
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