レスター・R・ブラウン
今日の欠陥だらけの世界経済には、ネズミ講と同じ特徴がたくさんある。ネズミ講とは、幅広い投資家から集めた出資金をベースに、それを配当の支払いに充当することである。ネズミ講は、投資家が抜け目のない投資上の決定を行った結果、投資に見合う極めて魅力的な利回りが提供されるという幻想を作り上げる。ところが実際は、たまらないほど魅力的な高収益の一部は、集めた運用資金を食いつぶすことによって得られたものなのである。
ネズミ講投資信託が持ちこたえられるのは、新たな投資が十分に流れ込み、直近の投資家たちに高リターンの配当を支払い続けることができる間だけである。それがもはや可能ではなくなったとき、その仕組みは破綻する。ちょうど、2008年12月にバーナード・マードフの650億ドル(約5兆8500億円)の投資信託が破綻したように。
世界経済の仕組みとネズミ講投資がまったく瓜二つというわけではないが、両者の間には気がかりな類似点がいくつかある。つい1950年頃の世界経済は、多かれ少なかれ身の丈に合う範囲内で営まれ、持続可能な利益率、つまり経済を支える自然システムが生み出す利子だけで暮らしを立てていた。しかし経済の規模が倍増し、さらに倍増し、またさらに倍増して、果ては8倍にまで膨れ上がると、経済は持続可能な利益率を超え、運用資産ベースそのものを消費し始めた。
米国科学アカデミーが2002年に公表した研究結果がある。その中で、ある科学調査チームは、総体としての人類全体の需要が地球の再生能力を超えたのは、1980年頃であったと結論付けている。2009年の時点で、自然システムに対する地球全体の需要は、持続可能な利益率を30%近くも超過している。このことは、人類が地球の自然資産の一部を消費する形で現在の需要を満たしており、やがてこれらの自然資産が枯渇したときに起きるネズミ講型破綻へ向けて、そのお膳立てをしていることを意味している。
2009年が半分ほど経過した時点で、世界の主要な帯水層のほぼすべてにおいて過剰な揚水が行われている。過剰な揚水が始まる前と比べ、灌漑用水の水量は増加している。と言っても、まさに正真正銘のネズミ講的なやり方で。私たちは今農業はうまくやっていると感じているが、実情は、今日推定4億人が過剰な揚水に頼って命を繋いでいる。当然のことながら、元々この「過剰な揚水」というプロセスが長く続くはずもない。帯水層が枯渇しつつある今、この水資源利用に発する食糧バブルははじける寸前のところにきているのだ。
似たような状況が山岳地帯の氷河の融解についても見られる。最初に氷河が融解し始めると、河川の水量と河川から供給される灌漑用水路の水量は、氷河の融解が起きる前よりも増加する。だがある点を過ぎると、小規模の氷河が姿を消し、より規模の大きな氷河の縮小につれて、氷河から溶け出す水の量は減り、河川の水量も減少する。このように、農業に関しては、水資源の利用に端を発する二つのネズミ講が同時に進行している。
このような仕組みは他にもある。人と家畜の数が程度の差こそあれ急速に増加するにつれて、飼料の需要が高まり、やがて牧草地の持続可能な利益率を超えてしまう。その結果草は劣化し、土地はむき出しの状態にさらされて、砂漠化への道をたどることになる。このネズミ講では、放牧にたずさわる者は食糧援助に頼るか、都市部へと移り住むか、いずれかの選択を迫られることになる。
海洋漁場の3/4は許容される漁獲量の限界に達しているか、それを超過している。中には、乱獲からの回復過程にある漁場もある。もしわれわれがこれまで通りのやり方を続けるならば、これらの漁場の多くは崩壊してしまうことだろう。 乱獲を単純に定義すれば、魚の繁殖力を超えて、海から魚を捕獲することである。
乱獲をそのまま放置した場合、どういう事態になりうるのか。その一つの典型例が、カナダのニューファンドランド沿岸沖のタラの漁場である。そこは長い間世界で最も豊かな漁場の一つだったが、1990年代初めに漁場は崩壊した。原状の回復は決して望めないだろう。
『祝福を受けた不安 - サステナビリティ革命の可能性』の著者であるポール・ホーケンは次のようにうまく表現している。「現在、未来から盗んだものを今売却して、それをGDPと呼んでいる。未来から盗むのではなく、未来を癒すことに基づく経済にすることも同じくらい簡単だ。われわれは未来の資産を作ることも、取り崩すこともできるのだ。前者は修復、後者は搾取と呼ばれる」。
より大きな問題は、われわれがこのまま同じように、過剰な揚水や、過放牧、過耕作、魚の乱獲、大気中への二酸化炭素の度を過ぎた排出を続ければ、ネズミ講経済が破綻して崩壊するまでに、どれほどの時間が残されているかだ。それは誰にもわからない。われわれの産業文明がこれまで経験したことがないことだからだ。
いつかは破綻すると知りながら始めたバーナード・マードフのネズミ講とは異なり、世界規模のネズミ講経済は崩壊を意図したものではない。市場の力や道義に反したインセンティブ、および進歩の評価基準の誤った選択によって、衝突が避けられない道をたどっているのだ。
資産ベースを取り崩しているばかりでなく、われわれは、コストを帳簿から除外する巧妙なテクニックを発明した。不祥事で破産した、テキサスに本拠を置くエネルギー会社のエンロンが数年前にやったように。たとえば、石炭火力発電所からの電力を使う時には、地元の電力会社から毎月請求書を受け取る。請求書には、石炭の採掘と発電所への輸送、燃焼、発電、および家庭への送電に関わるコストが含まれている。
しかし、石炭燃焼による気候変動のコストは全く含まれていない。その請求書は後で、おそらくわれわれの子供たちに届けられるのだ。気の毒なことに、彼らが受け取ることになる、われわれが使用した分の石炭の請求書は、われわれの請求書よりも多額になるだろう。
世界銀行の元チーフ・エコノミストであるニコラス・スターン卿が、2006年に気候変動の将来の費用に関する画期的なレポートを発表した際、彼は市場の重大な失敗について語った。市場が化石燃料の価格に気候変動の費用を組み込まなかった誤りを指摘したのだ。スターンによれば、その費用は数兆ドルに上る。化石燃料の市場価格と、社会的な環境コストを組み込んだ正当な価格の間には、非常に大きな差がある。
経済的な意思決定者としてのわれわれは皆、指針となる情報を市場に頼っているが、市場の提供する情報が不完全なため、結果としてわれわれは間違った決定をしている。典型的な例の一つは、2009年半ばに1ガロンあたり3ドル前後(1リットルあたり約72円)だった米国のガソリン店頭価格だ。
この価格には、石油の発見、地表への汲み上げ、ガソリンへの精製、ガソリンスタンドへの輸送の費用しか反映されていない。気候変動のコストや、石油業界への税優遇措置、政治的に不安定な中東で石油へのアクセスを確保するための、急増する軍事費、汚染された空気を吸うことによる呼吸器疾患の治療のための医療費などを見落としている。このような間接費用は今では全部で1ガロンあたり12ドル(1リットルあたり約290円)程度になっている。ガソリンを燃やすのは、実際にはとても高い費用がかかるのだが、市場は安いと言っているのだ。
市場は生態系の環境容量も考慮していない。たとえば、漁場での乱獲が続けば漁獲量はそのうち減りはじめ、価格が上昇し、トロール漁業への投資がさらに促されることになる。当然の結果として、漁獲量は急減し、漁場は崩壊する。
私たちが今必要とするのは、経済と環境の関係に関する現実的な見通しだ。また、これまでになく、大局的な視点で考えられる政治的指導者も必要としている。政府の主な顧問は経済学者なので、生態学者のように考えられる経済学者か生態学の知識のある顧問が必要だ。さもないと財やサービスの間接費の除外、自然が行ってくれるサービスの軽視、さらに持続可能な生産量の閾値の無視といった市場行動によって、経済をサポートする自然のシステムが破壊され、グローバルなネズミ講は破綻するだろう。