<生物多様性について、「植物は形で勝負する」>
「地球環境問題」にはさまざまなものがあります。環境省などでは、「地球環境問題」を次の9つの現象に分類しているようです。
●地球温暖化
●オゾン層の破壊
●酸性雨
●野生生物種の減少
●森林(熱帯林)の減少
●砂漠化
●海洋汚染
●有害廃棄物の越境移動
●開発途上国の環境(公害)問題
「野生生物種の減少」は「生物多様性の減少」ともいわれます。私は以前から、その他の問題に比べて、この「生物多様性」の問題って「わかるようなわからないような」感じだなぁ、と思っていました。
通訳や翻訳をやっていて、まず言葉が「わかるようなわからないような」・・・と思うことが、よくあります。「生態系」「エコロジー」「生物圏」「エコシステム」などなど。それぞれがどう区別されて使われているのか、(私自身)まだ整理がついていない状況です。
そして、上記のその他の問題は、その原因やメカニズム、どうして問題なのか(人間社会への影響)がだいたいではありますが、わかっている(合意がある)ように思います。
それに比べて、生物多様性の問題は、「絶滅する生物種が増えて、生物多様性は減っている」ことはわかるのですが、その実態も実はよくわからない。そもそも地上にどのくらいの生物種が存在しているのかもわかっていないので、絶滅のスピードといっても、あくまで推測になってしまいます。
それから「生物多様性が減少すると何が問題なのか」というのも、いくつか整理された答えは提示されていますが、どうも腑に落ちていないのが私の現状です。
「人間活動のせいで、他の生物種が減っている」こと自体は問題だと思っていますが、これはどちらかというと、道徳的・倫理的な問題だろうと思います。そういう道徳や倫理を超えたところでは、いったい何が問題なのか?
さまざまな環境活動がありますが、「生物多様性」保全団体というのは、あまり聞かない気がします。もちろん、メダカやトラや、チンパンジーなど、具体的な生物種を守ろうという団体はたくさんありますが。
それに、企業の環境活動にも「温暖化」「熱帯林」「オゾン層」などは入ってきますが、「生物多様性」保全のための取り組み、というのはあまり聞かないような気がします。企業の方、どうでしょうか?
つまり、いろいろと環境関係の活動をしていて、自分にとっていちばんボンヤリとしか感じられないのが、生物多様性だなぁ、と思っていました。
じゃあ、「生物多様性」の研究者は何を研究しているのだろう? 何を考えているのだろう? と思っていたところへちょうど、国立環境研究所で生物多様性の研究をなさっている方と知り合う機会がありました。
国立環境研究所の情報から、他の研究者の書かれたページをいくつか教えてくださいましたので、部分的に引用しながらご紹介します。
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○大絶滅時代における生物多様性研究 (椿 宜高)
http://www-cger.nies.go.jp/cger-j/c-news/vol9-2/vol9-2-4.html
はじめに
今日、人間がこの地球上にあるのは、生命誕生以来40億年をかけた生物の進化の結果である。嫌気性の微生物の発生の後、光合成を行う微生物、次に植物が誕生し、地球の大気環境を無酸素状態から酸素が20%を占めるまでに変化させてしまった。さらにはオゾン層が形成され、有害な紫外線がシールドされた結果、生物の陸上への進出が可能となったのである。
動物は植物が作った有酸素の状態のもとで、しかも植物を食ってのみ生活できる、いわばパラサイトとしてスタートした。人間が自然からの収奪を過度に行うということは、パラサイトがホストを食い殺し自分の存続を危うくすることにも似ている。自然界では共進化のプロセスによって、パラサイトとホストの関係は一方的な搾取から、しだいに共生へと変化していく。つまり、パラサイトはホストを殺すことなく節度ある(?)搾取を行い、ホストはパラサイトを利用するように関係が変わってくるのである。
ただし、パラサイトが主導権を持ったり、ホストが優位に立ったり、両者が絶滅の危機に瀕したりした時期がそのプロセスの中には含まれるだろう。数万年〜数百万年の時間スケールで考えると、人間と自然の間にも同様のプロセスが働いて、いずれは両者の関係が落ち着くのかもしれないが、その前に人間が絶滅する可能性の方がずっと高いように思われる。しかし、我々は何もしないで絶滅を待つよりも、理性によって、なるべく早期に自然との安定した共生的な状態を作りたいと思う。これは、あらゆる人間の望みであろう。
このように考えると、地球環境研究の目標は、「人間活動と自然環境のバランスを維持する恒久的なシステム」、つまり「持続可能なエコロジカルシステム」の探究にあるということになる。ここではあえて「生態系」という言葉を使わずにカタカナを使った。その理由は、「生態系」という言葉がこれまであまりに様々な意味で使われていて、しかも人間を含まない自然の系を意味することが多いからである(たとえば森林生態系、湖沼生態系、草地生態系など)。
個々の生態系を総称として指す場合には「ビオトープ」という用語を当てることにする。また、人間社会を含む系としてのエコロジカルシステムは「バイオスフェア」の概念に近いが、'システム'の意味合いを残すため、ここでは「エコロジカルシステム」という言い方を採用する。
生物多様性研究(あるいは保全生物学)とは何か
地球上で長い年月をかけて生まれてきた生物群集は、人間の活動により地球上のあらゆる地域で打撃を受けており、多くの種は個体数が激減し、すでに絶滅した種、絶滅に瀕している種も多い。このような事態が生じた原因は、人間活動による直接的な自然の改変(有害化学物質の乱用、生息地の物理的破壊)ばかりでなく、動植物の乱獲、人間が持ち込んだ外来種との競争などによってもたらされたものである。
生物多様性の減少は、多くの場合人間にとっても好ましくない。人間は食糧、医薬品、工業原料などの多くを自然環境に依存して生活しているからである。しかし、生物多様性からうける恩恵はこのような直接生活に使われる商品だけではない。生物多様性の減少は人間の生活環境として重要な地球の空気や水、気候などを変化させる原因ともなりうるのである。
保全生物学はこのような危機的状況に呼応して発達してきた学際的科学である。保全生物学は生態学、進化生物学、個体群生態学、分類学、遺伝学がその中心となるが、これまで、これらの研究分野が人間による影響を排除した自然環境のもとでの法則性の追求を行ってきたのに対して、保全生物学では人間と自然との'正しい関係'の探究が主眼となる。その際、'正しい関係'とは何かを定義するためには社会学や経済学を含めた哲学的な考察が必要になる。したがって、保全生物学を生物学の単なる一分野として捉えるのは適当でない。自然科学の範疇にも収まらない、社会科学、経済学、哲学なども含めた総合科学としての性格を持っているのである。
'正しい関係'が何かについて合意が得られるまでは、保全生物学は他の自然科学にはない特徴を持つことになる。それは、生物の多様性は「善」である、という作業仮説のもとに研究を進める点である。その裏返しとして、人間活動による種や個体群の絶滅は「悪」ということになる。このような保全生物学が基盤にしている作業仮説には合意が得られているわけではないが、その作業仮説に基づく保全生物学の営みは、人間の存続のためには正しい選択であると思われる(少なくとも生物多様性が「悪」であるとは考えにくい)。この作業仮説自体の証明も重要な研究テーマとなる。
このような保全生物学の守備範囲は、生物多様性減少分野がカバーすべき領域とほぼ一致していると考えて良い。すなわち、生物多様性減少の分野は世界的に科学として認められつつある保全生物学の発展に沿って研究を進めるのが良策であろう。
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「保全生物学」という分野は、私ははじめて知りました。人間の影響から切り離された自然界の研究ではなく、「人間と自然との正しい関係」を探求する学問であって、社会科学や経済学、哲学なども関わってくるというのは、とても心強い発展だと思います。そして「政策形成」「世論形成」などにもつながってくれば、「自然との正しい関係」に人間を動かしていく力になるのでしょう。
同じ方が、国立環境研究所ニュースに「生物多様性を守るものー技術力か洞察力か」を書いていらっしゃいます。こちらからも部分引用します。
http://www.nies.go.jp/seibutsu/news/17-1/17-1.html
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最近考えていることを書いてみたい。それは,こういうことである。これまで野生生物保全研究チームを率いてきて,いつも心に引っかかっていた問題がある。このチームはその名の通り,野生生物の保全を目標にすべく設置された研究チームである。
しかし,はっきり言って,野生生物を保全するのは難しいことではない。本気で保全する気があるのなら,ターゲットにする生物(群)を決め,十分な面積の生息地をしっかり守ってやり,監視のための時間と労力をほんの少しだけかければいいのだから。このことは植物でも動物でも同じことである。どのくらいの面積
が必要か対象生物の生活様式を考えて,絶滅が当分ありえない位の生息地面積を確保することが最も重要なポイントである。それでも絶滅してゆく生物は,人間がいくら努力しても絶滅してしまうだろう。それまでも人類の責任と考える必要はない。
難しいのは,野生生物の絶滅を加速する原因となっている人類の経済活動をコントロールすることである。そのために研究者に何ができるだろうか。経済活動は野放しにしておいて,野生生物の絶滅を防ぐために小手先の技術開発を行っても,その効果はたかが知れている。それは,風邪をこじらせた病人に医薬を与えて事足れりとするのにも似たやり方である。
重要なのは,風邪を引かない基礎体力づくりであるはずだろう。それと同じようなことが野生生物にも言えるのではないだろうか。生物多様性減少の問題においては,研究者自身が洞察力を高めること,さらにその洞察力から生まれる結論の宣伝普及に務めることが重要で,それが生物多様性を救う最も効果的なやり方だろうという気がする。
「本気で保全する気があるのなら」と書いたが,実は,これが生物多様性保全の核心なのではないだろうか。これまでの生物多様性減少の問題への取り組みは,人類の様々な経済活動が自然環境に与えてきた悪影響を指摘するにとどまり,生物多様性の減少が人類の存続にとってどのような意味があるのかという,逆方向の影響についてはあまり発言してこなかったのではないか。また,それは何故なのか。このような問いかけから,これからの生物多様性研究の方向が生まれてくるのではないだろうか。
ところで,人はなぜ生物多様性が重要だと感じるのだろうか。生物多様性の価値は次の4種類に分類できそうである。
(1)直接的経済価値(生物資源としての価値)
木材供給地としての熱帯林,まだ利用価値のわからない動植物,遺伝子組み換えのための遺伝子資源などを含む。
(2)間接的経済価値(生態系サービス機能)
CO2 シンクとしての森林,海洋の気候調節機能,干潟の水質浄化機能など。
(3)文化的価値(人類の文化を育んだ歴史的価値)
芸術,祭り,教育,文学,歴史観への影響など。
(4)倫理的価値(人類の進化を導いた歴史的価値)
美意識,情緒,倫理観などに人間の進化の過程で自然(他の生物)から受けた影響。遺伝的背景を持つとも言われる。
並べた順番は,その価値が市民権を得ている順になっている。生物資源としての価値は,ほとんどの人が認める価値であろう。生態系サービス機能としての価値も,研究者が(乱暴な計算も多いが)価値をお金に換算してみせることで,少しずつ市民権を獲得しつつある。
しかし,人類が抱いている危機感は,本当にこのような経済価値の消失だけから来るものだろうか。多くの人は,経済価値に加えて,これとは異質な,しかもかなり大きな危機感を抱えているような気がしてならない。言い方を変えると「生物多様性には人類の精神が拠り所とする基盤のようなものが含まれているのではないか」,そういう本能的感覚が普遍的に存在しているという気がするのである。これが,生物多様性の持つ文化的価値あるいは倫理的価値ということになるだろう。
現時点では,これらの非経済価値は人間の経済活動のブレーキとなる程には力強くないが,少なくとも文化的レベルでの価値ももっと評価してやらないと,生物多様性はズルズルと後退を続けるような気がしてならない。
人間の活動が生物多様性を脅かしていることは,ほとんどの人が認識している。生物多様性がいろいろな意味で人間の生存の基盤になっていることも何となく理解しているし,人間活動と生物多様性が対立関係にあるものだということも多くの人がわかっている。
しかし,問題を経済学的なトレード・オフの関係と捉えて妥協点を求めようとすれば,それが解答可能となるのは,生物多様性の価値を経済通貨によって評価した場合だけになる。直接・間接の経済的価値の場合はそれでいいとして,生物多様性の文化・倫理的価値をどう評価したらいいだろうか。強引に何でもかんでも経済通貨に置き換える方法を探すべきだろうか。
そうではなくて,人間活動を経済学だけで割り切るのはもう終わりにして,人類の存続と心の豊かさをめざした新しい哲学を模索すべきではないか。21世紀は心の時代と言われているが,その実現のために生物多様性の果たす役割は大きい。
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このような情報を教えてくれて、私のいろいろな質問にも答えてくださっている竹中明夫師匠?が個人的に作っていらっしゃるHPもとても興味深く読ませてもらいました。
http://www03.u-page.so-net.ne.jp/rd5/takenaka/index.html
岩波書店の「科学」掲載された「植物は形で勝負する -光資源獲得のための形-」は特に初心者向けで面白かったです。 最初と最後だけご紹介しますね(「これをキセルという」、といってもわからない人が増えてくるのでしょうね ^^;)。
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はじめに
テレビの生き物番組の題材は、ほとんどすべてが動物だ。たしかに動物の行動は見ていて飽きない。 人間に重ね合わせて見ることができるし、そのいかにも賢いふるまいに感心することも多い。いっぽう、植物が題材になるのはもっぱら園芸番組ばかりである。植物の生き方のおもしろさをテーマにした番組などめったに見ることができない。
でも、動物が賢いというのなら植物だって賢い。動物の行動のなかに理にかなった"合理性"が見出されるのと同様に、植物の生き方にも多くの合理性を見出すことができる。植物においても動物においても、長い進化の歴史のなかで生存と繁殖により適した生き方が選択されてきたことに違いはない。
そのような合理性は細胞の中などミクロの世界にもたくさん詰まっているが、目で見えるマクロな構造の中にもひそんでいる。動物のように動き回ってエサを取ることはないかわりに、植物の資源獲得ではその3次元的な構造が果たす役割がとても大きい。
エネルギー源である光を獲得するには地上部の空間構造が、また土の中の水や栄養分を集めるには根の空間構造がカギとなる。いってみれば、多くの動物が行動で勝負しているように、植物はマクロな構造すなわち'形'で勝負している。あらたな空間へと枝や根を伸ばして資源を獲得し、その一方で以前に作った器官を枯らしていくさまを、植物の'行動'と呼ぶ人もいる。
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そして、「葉の向きをかえて日当たりを調節」「葉並びのよい枝」「枝分かれして空間を獲得」「光をめぐって形で勝負」「ジレンマの中で」とわかりやすい説明に、「植物の世界」に惹き込まれてしまいました。最後のところから。
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植物の種類によってさまざまな生活の仕方があるのと対応して、折り合いのつけかたにもさまざまなパターンがあるようだ。たとえば、今年しか生きられない一年草は将来を期待した生き方をするはずはなく、他の植物に覆われたらば安全率は後回しにしてめいっぱい背伸びをする。
いっぽう、競争に勝つことはあきらめて日陰になってもしぶとく暮らす生き方に徹する林床の低木などではコンパクトでコストがかからない形を作る。また、日陰になっても焦らずにじっと我慢しつつ最終的には高木になって繁殖するという生き方をする木では、安全・確実指向の成長パターンを示す。
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植物もいろいろとタイヘンなんだなぁ、それぞれ工夫してサバイバルしているんだなぁ、と親近感を感じちゃいました。今度、公園で、道端で、ちょっと"植物の身"に思いを馳せてみませんか?