[No.435] で「地球の人口が100人だったら」を授業で使って、という経験をシェアして下さった岸本先生から、お手紙と本が届きました。ご快諾下さったので、ご紹介します。
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枝廣淳子様
猛暑が続いていますが、お変わりございませんか。平素よりいろいろお世話になり、ありがとうございます。
拙著をお贈りいたします。いつもホットな情報をたくさんいただいておりながら、何もお礼ができないことを心苦しく思っておりました。今回このような機会に、ささやかなお礼ができることを、うれしく思っております。
拙著は、「学級崩壊」という事態に遭遇し、「運良く」総合学習に出合って、抜け出すことができた実践を、ありのままに書いています。私達教員には、公務員としての「守秘義務」があるのですが、学級崩壊に悩む多くの教職員に、何らかの支えになればと思い、思い切ってさらけ出しました。
総合学習を実施してみて感じることは、平素私達は子どもに「真実を教えていないんだな」ということです。真実は子どもの素直な心を揺さぶるのです。すると、子どもは子どもなりに「何とかしたい」と思うようになるのです。そのことが、子ども同士の連帯をつくったり、教師と子どもの関係、大人と子どもの関係を良くしたりしてくれるのです。そういう意味で、総合学習は、教科教育とはまた違った良さがあると考えています。
私は地元の川を軸とした総合学習を、全校で取り組んでいますが、「世界の人口が100人だとしたら」のような国際理解の総合学習にも、取り組んでいきたいと考えています。今は3年生担任ですので、グラフだけでは何も読みとれないと思います。貧しい国の人々の写真や食事、住まいや暮らしの写真があれば、3年生でも取り組めるのではないかと思います。
この国には、情報は山ほどあるのですが、本当にほしい情報、子どもたち、いや大人達の考え方を根こそぎ変えてしまうような情報が、なかなか入手しにくい状況にあると思います。そんな中、枝廣様のメールはたいへん貴重なものです。感謝いたしますとともに、今後ともよろしくご指導下さいますよう、お願いいたします。
これからますます暑くなります。くれぐれもご自愛下さい。
岸本 清明
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お送り下さったご本は、『学級崩壊を超えて』(評論社 1,800円)でした。岸本先生のお書きになった第1章「学級崩壊から総合学習へ」、教室の中のダイナミズムや子どもたちの心の動きまで伝わってくるような、心動かされる章でした。
大学院でカウンセリングをやっていたときによく感じていた、「人間ってすごい力を持っているんだな~。特に子どもの成長力、自分やまわりを育てる力はすごいな~」という思いを、ふたたび強く感じました。
「これはたくさんの人に読んでほしいなぁ!」と思ったので、岸本先生に「何かレジメのようなものはありませんか?」とお聞きしたら、研究会の資料を貸してくださいました。先生のご厚意でご紹介します。
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┌────────────────────────────────┐│ 「学級崩壊とその立て直しの方途」 ││ ~ 高学年の一例から考える~ │└────────────────────────────────┘
1 はじめに私の勤務する東条東小学校は、加東郡東条町にある。全校生約250名で、二年生と五年生以外は単学級の小規模校である。
校区は、酒米「山田錦」の産地として名高い。酒米の売価は、食用の米より高いとはいえ、農業だけでは暮らしが成り立たない。それで、両親が働きに出ている家庭が多い。子どもたちの大半は、祖父母と共に暮らし、祖父母にいろいろな話を聞いてもらっている。
校区は昔の農村の良さを残し、学校に対して協力的である。私は今年教職26年目、この東条東小学校で5年目である。
2 5年生3学期の学級崩壊このような農村部の小学校でも、学級崩壊は起こる。昨年五年生の片方のクラスで3学期にそれが起こった。その主な原因は、仲間外しの対応をめぐって、子どもと担任の行き違いにあった。
男子の一人が、クラスのみんなから仲間外しをされ始めた。そのことを本人が担任に訴え、担任がその対応を始めた。その時、仲間はずしをした子どもたちは、その子の態度に腹に据えかねるものがあり、思い知らせてやりたいとの気持ちを持っていた。
担任は学校長の強い指導もあって、「仲間外し=いじめだ。それはしてはいけないのだ」と指導した。その結果、自分たちの思いや言い分、気持ちが、担任に全く通じないと思い込み、男子の大半が担任の言うことを聞かなくなってきた。
1人の子に対するいじめが、このようにして担任不信にまで発展していった。そして、親も子どもの言い分のみを信じ、担任不信を口に出し、相互に連絡し合って、学級崩壊が一段と加速していった。
3 6年1学期の状態6年生に進学する際に、クラス編成をし直した。いじめられていた子と、その子を支えてくれそうな子、性格の比較的穏やかな子を1組に集めた。そして、いじめをした子達が2組に集まり、6年生がスタートした。私は2組を担任した。
4月当初から、子どもの様子がおかしかった。両方のクラスとも、まとまりを欠いていた。私はこの子達を4年の時に担任していたので、私の授業は成立していたが、図工と家庭科の専科の授業では、子どもたちが好き勝手なことを言い、教師に逆らい、成立しないことがたびたびあった。組替えをしたのに、わざわざ隣のクラスに行って、かって仲間外しをした子に、暴力的ないじめをすることもあった。
学級でも、ある一人の女子を男子がいじめ始めた。誰かをターゲットにしないことには、気持ちが落ち着かなかったのだろう。一学期は、学級崩壊の危機を感じる毎日であった。
そのころ、子どもたちの書く作文は、前担任の悪口や、教師を辞めさせてほしいとか、友達や低学年の悪口など、穏やかでないものが多く、子どもたちの心の傷が大きく、心がすさんでいることが感じられた。
4 立て直しの2つの方策(1)学級裁判学級でいじめや何かの事件が起こると、学級裁判をすることにした。トラブルに私がとやかく言うと、子どもたちは表だっての反抗はしないにしても、素直に従う気持ちにならないだろうと感じたからだ。
裁判官は男子3名、女子3名で、「公平な判決が出せる子」という条件下に、子どもたちに選ばせた。被告人と原告は、それぞれ弁護人を1人ずつ本人達が選んだ。裁判官は、最後に判決として自分の意見を言う。それまで、質問は何回してもいいが、自分の意見を言ってはいけない。傍聴人は、全員の裁判官が質問を終わってしまうまで、発言をしてはいけない。しかも、発言は質問に限るという限定をつけた。そして、私も傍聴人の立場で参加した。
この裁判はおもしろかった。意見が言えないので、強い子の一方的な意見に引きずられることがなかった。また、質問に答える中で、原告、被告両者の言い分がしだいに明確になり、相手が悪いと一方的に思い込んでいたことが間違いだったと、互いにわかってきた。
最後に6人の裁判官が、判決として自分の意見を言うのだが、たいてい「どっちもどっちだ」という判決になった。それは私の判断と全く同じであった。子どもたちは、「火曜サスペンス劇場」などのテレビドラマで、裁判のことを知っている。そのせいか、意外と上手に裁判をした。
この裁判を通して、「立場が違えば違う見方をし、異なった意見になるのだ」と子どもたちは実感したと思う。そして、「一方的な見方による断定は間違っている」と感じたと思う。また、両者の言い分をきちんと聞くことが、公平な判断の条件だと思ったに違いない。
事件のたびの裁判は、自分たちのことは自分たちで決め、実行していくことにもつながっていった。もし、私の判断を押しつけたら、それがたとえ正当な意見だったとしても、子どもたちが反発して、さらなる学級崩壊を引き起こしたであろうと考える。
ただ親から、「被告」「原告」という裁判用語が、子どもを犯罪者扱いしているというクレームが出てきた。その意見は必ずしも正しいとは私は思わないが、それ以来、被告という用語を用いないで、裁判は続けた。
(2) 総合学習の取り組み9月から、総合学習「うまい水が飲みたい」という実践を始めた。私は常々、総合学習に取り組みたいと考えていた。
最初は、東条町と社町の水道水を飲み比べたり、井戸水と水道水、ミネラルウォーターと浄水器の水を飲み比べたりした。水の味の違いは、水に溶け込んでいるものの違いであることに気づかせ、水道水をまずくしている塩素に着目させた。
子どもたちの調査では「きれいだ」ということになった東条川が、はたして「きれいなのか」、子どものおじいさんに来てもらい、昔の東条川の話をしてもらうことにした。昔の東条川はカジカガエルが生息し、ホタルが乱舞する清流だったという。おじいさんは、都市化が進み、排水路が整備され、農薬や家庭排水が直接川や溝に流れ込むようになってから、カジカガエルやホタルが姿を消したことを、丁寧に話してくれた。
また、水道事業所の人は、東条川が洗剤や有機物で汚れているため、塩素をきつくして、安全を確保していることを話してくれた。
それから、下水処理の専門家に来てもらい、川をきれいにするためには、下水道を完備し、ゴミや家庭排水を川に入れないようにしなければならないことを教えてもらった。
その後、子どもたちは、東条川でクリーン活動をした。洗剤が流れ込み、廃プラッスチックが散乱している東条川は、「水の学習をした目」で見ると、死にかけていた。
そこで、子どもたちが、まずお母さんに、そして全校生に、それから、有線放送や町の広報で町民に、最後に神戸新聞で、「川をきれいにしよう」と広く訴える、というような展開になった。
子どもたちは、35時間にも及ぶ実践を、ほぼ自分たちの手でやりきった。 総合学習は教科学習と違って、協力共同の色彩が強い。班で調べ、そのことを紙に書いて発表するにしても、自分たちで意見を交換し合って、よりベターな方法をさぐっていかねばならない。
何か事をするたびに作文を書き、意見を交換し合った。そして、次に何をするのかを、自分たちで決めていった。自分たちで決めた以上は、自分たちの責任である。子どもたちは主体的にどんどん動いた。
また、劇や発表会などのいろいろな訴えをする場では、個性が強い子の、個性を生かせる場がたくさん出てくる。それは、友達の良さを発見する場につながっていった。
川を観察して考える。専門家の意見を聞いて考える。考えたことを実践に移す。自分一人ではなく、もっとたくさんの人に川をきれいにしてほしいと訴える。その中で、「学ぶことが暮らしを見つめ、暮らしを変え、未来を変えることにつながる」と、子どもたちは気づいてくれた。つまり、「学ぶ」ことの本来の意味をつかんでくれたと思う。
9月から2月まで、毎週1~2時間。主に道徳の時間を使って、このような実践を進めてきた。総合学習が軌道に乗った3学期は、学級崩壊の危機はもはや感じなかった。子どもたちは穏やかな顔をして卒業していった。後輩達に、「水の学習」を続けてほしいという夢を託して。
5 結びにかえて思えば、5年生での学級崩壊は、大人への不信がその根元にあったと考える。(背景には、勉強ぎらいや学校、教師不信など個々にそれぞれの事情があったと思う)それは、思春期と結びついて、親や教師不信、少年野球の監督不信へと、思わぬ激しい展開になった。
その学級崩壊をくい止めたのは、まず子どもたち自身であった。裁判にしろ、総合学習にしろ、自分たちの意見を率直に出し合い、また相手の意見をよく聞いた。自分たちで決め、自分たちで実行していくうちに、自分も自分たちも、周りも良くなっていくことに自然と気がついていった。そして、総合学習では「協力・共同」を学び、自分にない友達の良さを発見していった。
次に、大人「達」も学級崩壊を止めてくれた。総合学習では、たくさんの専門家に教室に入って、子どもたちに話をしてもらった。昔の東条川の話をしてくれたおじいさん、下水処理の専門家、役場の課長などの方々が、子どもたちにわかるように、丁寧に話してくださった。
ハウス食品やライオンなど、たくさんの企業からも懇切な資料を送っていただいた。川の汚れのもとになっている洗剤メーカーも、より害の少ない洗剤を研究開発していることに、他罰的な子どもたちも、心を動かした。
そして、東条町役場や、神戸新聞、ラジオ関西までもが、子どもたちの取り組みを評価し、川をきれいにしようと応援し、宣伝してくれた。
もはや大人は敵ではなくなった。子どもたちの熱意が、大人を動かし、子どもたちの熱意に応えた大人が、子どもたちの心を変えたのだった。
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この実践を生き生きと、子どもたちの様子や、子ども・親の感想なども含めて、伝えてくれる本です。
読んでいて、皆さんも「あれ?」と思われましたか?
「立場が違えば、見方も違うし、意見も違うのだ」という本当に大切なことを身をもって学ぶ裁判場面というツールに対して、「子どもを犯罪者呼ばわりするのか」という親の非難がきた、というくだりです。
帰宅した子どもから「今日、ボクは被告だったんだ~」と聞いてびっくりしたであろう親の言い分もわかる。でも、この表層ではないところで、本当に何が行われていて、それはどんなに大切な意味があるのか、ということをわかってもらいたいのだけど、と先生は思われたことでしょう。
「こういうことって、けっこうよくあるんだよな~」と思ったのでした。そう思いませんか?
そして、私がもし先生の立場だったら、同じように「裁判」ということばを使うことだけやめただろうな、と思いました。
ご本を読ませていただいて、私がいちばん好きになった箇所を少しご紹介します。
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水を飲んでいるとき、ある子が突然、「きき水をしよう」と言い出しました。さっそくやってみました。水の味の違いは微妙で、当てるのがけっこう難しく、これがたいへんおもしろかったのです。
勉強が良くでき、みんなに一目置かれているA君が、1つもあわないこともありました。舌と勉強は別なんやなあと、子どもたちは感じたようです。
また、どの水をおいしいと感じるかは、ひとりひとり違いました。最初、子どもたちは、おいしい水はみんなが一致すると思っていたようです。
長い話し合いの後に、「計算は答えが同じになるけど、水の味は好みだから、ひとりひとり違っていていい」という結論が出たとき、何かほっとする空気が子どもたちの間に流れました。
そのことは、子どもたちにとって、大きなカルチャーショックだったようです。「自分の舌を信じていい、みんなと違っていても、それはそれでいい」と思ったとき、安心したのでしょう。
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「人と違っていてもいいんだ」「自分の好みでいいんだ」・・・これこそ、「生きる力」のモトなのじゃないかな、と思います。そして、A君もホッとしたんじゃないかな、と。
もう一箇所。
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次は、洗剤メーカーに「害のない洗剤が作れないか」という質問の手紙を書きました。
これに対して、「合成洗剤は無害だ。いろいろ言われていることは、間違いなのだ」という分厚いパンフレットを送ってくれたメーカーもありました。
一方で、ライオンは、膨大な資料とともに、子どもたちの質問に誠実に回答を寄せてくれました。回答の最後に、「今の時点では、完全に無害の洗剤は、今のような値段では作れない。今は研究開発を進めている。水を汚さないために、使用量を守ってほしい」と書いてありました。
仕事の範囲を超えて、子どもたちに誠実に向き合おうとされている姿勢に、私は胸が熱くなりました。
この回答を聞いて、子どもたちは、いろいろ反応しました。まず女の子たちが、リンスをやめました。洗剤の使用量を減らすために、服を毎日替えていたのを2日に1回に減らしました。ボディーソープが石鹸に変わりました。湯飲みを洗うときは、水だけになりました。
子どもたちは、学習を進めていく中で、自分たちの生活を自然に見直していきました。子どもたちの書いた作文のなかから、私はそのことを知りました。
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環境報告書や環境コミュニケーションという領域が注目され、いろいろな取り組みが行われていますが、このライオンの社員の方の対応に、コミュニケーションの原点を見る思いがします。報告書やいろいろなツールである「仏」に、このような「魂」がこもってこそのコミュニケーションだ、と。
そして、ニュースでも何度も書いています、「どうやったらライフスタイルを変えられるのだろう?」の答えの例もここに載っています。子どもたちはこの授業を通じて「ライフスタイル」を変えていったのですから。
そして、ご自分の実践をこのように共有してくださった岸本先生に心からお礼申し上げます。
この3月に、通訳の友達がたまたま転送してくれたネット空間を流れる情報のひとつ「地球の人口が100人だったら」を、たまたま私が「おもしろいな~」と思って翻訳してニュースに流したところ([No.413])、思いもかけないほどあちこちに広がったようです。これほど転載・引用の許可を求めるメールがきた号はありませんでした。
その広がりの一つが、ニュースを読んで、この題材を授業に使って下さった岸本先生です。先生の授業の様子もニュースでたくさんの方に伝えさせてもらいましたし、そのご縁で、このような実践と子どもたちの様子を教えてもらうことができました。
「縁って不思議だなぁ~、ありがたいなぁ~」と、(でも、縁って英語にならないんだよねぇ、と思いつつ)とてもうれしく思っています。