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私の空想
久方中 1年 塚本淳子
私は、京都の銀閣寺の近くで生まれ、幼稚園時代までそこで過ごしました。そして、父の転勤にともなって、宮城県の仙台市郊外、愛知県の安城市と引っ越し、2年半前に名古屋市に移り、いままでずっと住んでいます。
名古屋へ来る前は、どこも都心から離れた静かな環境で、大自然に囲まれて、伸び伸びとした生活をしてきたので、名古屋に来てはじめは、車や人の混雑ぶりには、頭が痛くなるほどでした。それでも私は、緑の山の見える団地に住んでいるので、まだ町の中心部に住んでいる人たちから見ると、しあわせだと思っています。そこで、日頃感じていること、希望などを述べてみたいと思います。
まず、街の中はどうしてこうも車が多いのでしょう。このことは、名古屋に限らず、日本中がそうなのですが・・・・・・。そこで、地下鉄を名古屋市内のすみからすみまで発達させ、バスの本数をもっとふやし、道路には、バスレーンをもっとたくさんつくり、自動車を最少限に規制して市内からしめ出します。
そして、市内をもっときちんと区画整理して、何ブロックかに分けます。そのブロックとブロックの間には、緑の広場――小さな子どもたちがちょうやせみ取りをしたり、学生たちが勉強の疲れをいやしたり、気軽にちょっと休めるような、そんな広場――がほしいなあ、と思います。
そしてごちゃごちゃと、とりとめもなく立っている市内の建物を整理し、高層ビルを建てて、全部の建物をその中に入れてしまいます。そうして、その建物のあとのあいた土地には、次のような物をつくります。
第一に、現在数が少なくて私たちが不便な思いをしている市営プール。次に、ふな、メダカなどの小魚を放った人工池。それから、いろいろな遊具のある公園。だれでも使える広い運動場。野外音楽堂なんかもつくるとますますすてきです。そのような物をつくって、市民のために開放します。
また、名古屋市は他都市と比べて、大変川が少ないので、市内のあちらこちらに人工川を掘り、きれいな水を流し、小魚を放し、川端は桜並木にして、日曜などには家族連れ、友達連れで、魚釣りができたら、どんな楽しいだろうなあ。
現在、市内の街路樹は、どこも電柱・電線が網の目のようにはりめぐらされているため、少し背が伸びるとじゃまになり、切り落とされてしまうので、大きく育てる事ができません。ですから、道路のグリーンベルトをもっともっと幅広く取って、電線なんかは、地下に通して、街路樹をうんと大きく、青々と育てます。
そして、どの木にも小鳥の巣箱をかけ、小鳥のさえずりが聞こえるようにしたら、どんなにすてきだろうなあ。それに、街路樹のところどころには、柿・梨・いちじく、桃・栗などの、くだもののなる木も植えて、その木の消毒から袋かけなどは、その地区の子どもたちがみんなで世話をして、大きな実がおいしそうに熟したら、近所のおじいちゃん、おばあちゃんたちもいっしょに、みんなで公園で食べたら、みんなはよろこぶだろうなあ。
それから、緑の広場に小さい花壇を作って、花の球根を植えて、みんなで世話して、きれいな花を咲かせたら、美しいだろうなあ。また、じゃがいも、さつまいもなども植えて、秋にはみんなで「いもほり」なんかをしたら楽しいだろうなあ。そして、そのおいももも、ふかしいも、焼きいもなどにして、みんなで広場に集まって食べたら、おいしいだろうなあ。
こんな事を空想していたら、本当に楽しくてたまりません。でもこんな事は、一度には実現できないので、少しずつ少しずつ、みんなが住み良く楽しい名古屋にするように、市長さんをはじめ、お役所の方々に努力をお願いし、また、市民の私たち一人一人が協力しなければならない、と思っています。
私の楽しい空想が、空想でなくなる日を夢見ています。
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おわかりの方も多いと思いますが、これは20ン年前に、中学1年の私が書いた作文です。むかしから食いしん坊だったことがわかっちゃいますねぇ。
あとで、主催者の方から「作文をもう一度読ませてほしい」というご依頼をいただいたので、タイプしました。この作文も、20数年後に「発掘」されて、話のネタになるとは思ってもいなかったことでしょう。
ところで、私の通っていた中学校は、「久方(ひさかた)中学」といいます。新しくできたばかりの市立中学で、地元の地名からではなく、「久方の 光のどけき 春の日に・・・」の和歌から名前を付けてもらいました。私はこの歌が大好きだったので、中学の名前も大好きでした。雅でしょう?
この久方中学の最初の1年生が私たちでした。私たちのクラスの担任の先生は、これまたピカピカに新しい、大学を出たばかりの新米先生でした。元気いっぱいの中学一年生たちは、優しい女性教師のいうことをなかなか聞かず、先生は大声を出しすぎて、声が出なくなったことがあります(音楽の先生なのに!)
・・・なんてことを、名古屋での講演後、この先生と懐かしくお話したのでした。年賀状はずっと交わしていましたが、お会いしたのは実に中2で転校して以来でした。「アナタのことはとてもよく覚えているのよ」と先生。「赴任されて最初の受け持ちクラスでしたものねぇ。私はどんな中学生でした?」先生の答えは・・・ナイショです。
帰宅してから先生からメールをいただきました。
>この前お話ししようと思ったのですが、あなたが中学のときにくださったピン
>クッション、大切に使わせていただいています
という一文がとても嬉しくて、20数年前の先生とも自分とも、「エコネットワーキング」しちゃった気分でした。