100匹目のサルの話、ご存知の方も多いと思いますが、ご紹介します。
宮崎県の幸島(こうしま)では、ニホンザルの研究者が、海岸でサツマイモをエサとして与えていました。イモは好きだが、砂は好かん、とサルたちは一生懸命砂を払いのけて、食べていました。
ある日、若いメスザルがイモを海中に落としてしまいました。慌てて拾って食べた彼女、「あら、砂は取れてるし、塩味がちょうどよい加減!」てな具合で、それから海でイモを洗って食べるようになりました。
この「イモ洗い文化」は、彼女の友達やその親、若者の間に伝播し、6年目には若いサルは全員、洗って食べるようになっていました(新しい文化を受け入れたがらない大人は、どこにでもいるものですね)。
ある日、友人を真似したサルが、イモ洗いをする「100匹目のサル」となりました。不思議なことに、この日を境に、「イモ洗い」はサル界の"常識"となり、すべてのサルがイモをもらうと海岸へ走るようになったのです。
ある思いを持つ人やある行動を行う人の数がある数に達すると、それは「真実」となり、集団の中に大きく広がっていくのですね。100匹目のサルのように、波長を合わせる人が1人加わることによって、突如エネルギーが強化され、ほとんどすべての人々に伝えられる、そういう臨界点があるのです。
・・・というお話です。
私たちひとり一人が様々な「出発点」や「原点」を持っているのだと思いますが、それが重ね合ってより大きなうねりとなると、地球にとっての「転換点」がやってくるのだと思います。
レスターはその「転換点」を threshold(閾値)と呼んでいます。2〜3年前から「そろそろこの点を超えそうな気がする」といっていましたが、最近では「超えたように思う」という言葉も聞かれます。
あちこちで、このような臨界点への動きを加速しよう、今は何も動いていない自分の組織だけど、何とか突破口を開いて火をつけよう、と取り組んでいらっしゃる方にお目にかかります。
そのような方々へ。エッセイ「夢の陣」を送ります。
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あるところに、美しい池がありました。ある日、池の隅に1枚のハスの葉が現れました。次の日にはハスの葉は2枚に、その翌日には4枚になっていました。1 日ごとに葉が倍倍で増えていく、不思議なハスでした。でも池の中の生き物たちは、「この池は大きいのだし、大丈夫だよ」と、気にしませんでした。
しかし、ハスが広がりはじめて29日目に、池の半分をハスが覆ってしまったのを見て、さすがにみんなは慌てはじめました。だって、池全体が覆われてしまうのは......、そう、明日なのです!
地球環境問題に注目が集まっていますよね。この30年間に世界人口は2倍になりました。わたしたちの現在の経済活動やライフスタイルは、「世界中の人々が同じ水準に達したら、地球があと2つ必要」というほど、地球の資源や生態系に圧力をかけています。
1時間に1万人ずつ人口が増え続け、1時間に3つずつ生物種が絶滅し、1年半ごとに日本と同じ面積の森林が消失し、地球全体の二酸化炭素排出量を半減してもすでに2〜3℃の温暖化は避けられないというのに、実際の二酸化炭素排出量は増え続け、今世紀初めには存在もしていなかった化学物質が200種類もわたしたちの体内に蓄積されている......、29日目の恐怖、でしょうか?
この数年間、通訳者としてまた環境ジャーナリストとして、様々な環境問題や環境活動の現場を体験していますが、わたしには、このハスで埋まりそうな池に、もうひとつ、別のものが見えます。
ポツン、ポツン、ポツ、ポツと、雨滴が池に落ちては、ゆらゆらと波紋を広げているのです。そして、池のあちこちで、ひとつの雨滴が隣の波紋とつながり、波紋のつながりをどんどん増やして、この池を包み込もうとしているのです。ハスから池を守るために!
企業や市民が環境問題に取り組みやすい仕組みをいっしょに作ろうとする政府や自治体。ただ「儲かればよい」ではなく、自分たちの活動が地球に与えている負担を少しでも減らそうと努力する企業。
ただ「目の前からなくなればよい」ではなくて、誰がどうやってリサイクルしてくれているのかを考えて、たとえば、ペットボトルはちゃんとラベルをはがしてから回収ボックスに入れる市民。
棚田を守ろうとする都会と農村との協力。衛星情報とインターネットを駆使して、地球の裏側の森林を守ろうとするNGO。地球憲章を定めようという国際的な草の根活動。
政府は政府のできることで、企業は企業のできることで、市民は市民のできることで、わたしたちと地球との関係を考え直し、変えていこうといううねりが日に日に増え、ネットワークを広げて、大きく強い勢いになろうとしているのです。
そして、どの雨粒や、波紋を広げる力、隣のネットワークとつながろうとする思いでも、その芯にあるのは「夢」なのだと思います。
むかしむかし、村へ下りてきては、夢を喰う山男がおった。
百万長者になった夢を喰われた男もおったし、
自分のやりたいと願ってきた夢を喰われて、ポカンとしている女もおった。
しかし、その山男ときたら、図体はでっけえくせに、すばしっこくて、
人の大事にしておる夢ばかり、気づかれないよう盗み取って、喰うのが好きだった。
村の衆はどうしようもなく、手を焼いておった。
ある日、山男は、村の娘の夢を喰ってやろうと思った。
娘は、川っぷちの岩に腰掛けて、足をぶらぶらさせながら、
一生懸命、自分の夢を考えておる。
山男は、気づかれないように、そっと娘の後ろへ回ると、
さっそく娘の夢を喰い始めた。
むしゃ、むしゃ、むしゃ、むしゃ
が、しかしだ、娘の夢は一向に減らんのじゃ。
山男は少しとまどって、喰うのをやめた。
これはどうしたことか、と考えている間にも、娘の夢はふくらんでゆく。
山男は、あわてて、また喰い始めた。
むしゃ、むしゃ、むしゃ、むしゃ
すると、どうだろう。
少しずつ、山男のからだがふくらんできた。
しかし、山男は、必死になって喰いつづける。
むしゃ、むしゃ、むしゃ、むしゃ
とうとう、山男のからだは、ぱんぱんになってしもうた。
その時、ふっと、娘が振り向いたのじゃ。
山男は、ぱんぱんにふくらんだからだを隠すことができなかった。
あわてた山男は、これまで喰った夢を全部、ふーっとはき出すと、
山にかけのぼってしもうた。
それ以来、山男はこりて、村に下りることはなくなったそうじゃ。
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この詩(?)は、中学生の頃に書いていたノートから引用したものです。ン十年後に"発掘"されるとは思ってもいなかったよ、といわれそうですけど。