エダヒロ・ライブラリー環境メールニュース
2005年06月20日
北海道の森林を見つめて (2001.03.29)
「昭和29年のことです。洞爺丸台風というのがありました。風速45m/秒というすさまじい台風で、函館で連絡船が沈みました。」
先日北海道で、40年にわたって北海道の山林を見つめ続けてきた方にお話をうかがう機会がありました。私の北海道の山林のイメージは、「国有林が多い」「天然林が多い」ぐらいでした。資料によると、北海道の森林の57%が国有林、43%が民有林です。天然林の割合は、国有林の66%、民有林の27%です。
また北海道の木材屋さんに知り合いが増えるにつれて、「北海道にはもういい木はあまりない」「北海道の製材工場でも外材の使用量がどんどん増えている」という話をよく聞くようになりました。ちなみに北海道での外材使用量は60%を超えているそうです。
「豊かな大自然」という北海道イメージには、もちろん青々と生い茂る森林が含まれているのに、「いい木がない」とはどういうことなのだろう?と思っていました。
「北海道の森林について、いまの状態と、特にどうしてそうなってきたのか、教えてくださいませんか?」と、娘ほどの年齢の若輩者の私のお願いに、60歳を超えて今なお現役バリバリのこの方は、天にそびえる大木のようにまっすぐな背筋を少し緩めて、優しい口調で語り始めました。
「木材の生産地のことを私たちは『山元』といいます。この辺ですと、旭川、帯広、北見のあたりです。洞爺丸台風は、山元にも大きな被害を出しました。フートーボクです。」
「フートーボク?」・・・あぁ、風倒木か・・・。とメモをカタカナから漢字に直します。メモにちらと目をやって、お話は続きました。
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ある山元では、3年分の伐採量ほどの木が倒れました。各地で大量の風倒木が出たのです。そして、これがその後の北海道の林業の厳しさを生むきっかけとなりました。風倒木はそのままにしておくと、用材として使えなくなります。早く処理をしなくては、ということで、全国から国有林や業界の作業員が動員されました。
そして、各町村に急いで製材工場が建てられました。「製材工場がない業者には、木は売らない」というからです。そして「製材工場があれば、誰にでも木は売る」というので、道内には最高で600もの製材工場ができました。・・・いまはその5分の1しか残っていませんが。
それから、風倒木の処理をするときに、パルプもたくさん出ます。その大量のパルプの処理のため、特典を与えて製紙工場を呼び込みました。それまでは丸棒(丸太)からチップを作る工場はあったのですが、これをきっかけに、十條製紙、本州製紙、大昭和製紙などが入ってきました。これら3〜4社で風倒木の低質材を引きうけて、パルプにしたのです。
当初3年で処理するつもりだった洞爺丸台風による風倒木の処理には、実際には5〜6年かかりました。
台風から5〜6年後、風倒木は処理が終わり、なくなりました。何が残ったでしょう? 数多くの製材工場とパルプ工場、そして強力な国有林職員の組合でした。国有林職員は、全国林野労働組合という組合を形成していますが、この北海道の風倒木処理のための動員がきっかけとなって、組合の勢力が拡大されました。
風倒木の処理が終わり、工場も作業員もヒマになりました。そこで「増伐運動」が始まりました。作業するための木を伐ってこい、ということです。
当局は、製材工場や製紙工場の要請に応えるために、年伐量を毎年更新していきました。木の成長率を10〜20%内密に水増しして、計算上たくさんの木を伐れるようにしたのです。でもそれによって、帳簿と実際の立木量にズレが出てきました。成長量の範囲を超えて伐ったので、山の木がなくなってきました。昭和60年ごろには、山には伐る木がなくなってしまいました。それまでは直径1〜2メートルという木がいっぱいあったのに、今は道内でも数えるほどしか残っていません。
本当の成長量がたとえば10万立方メートルだったとします。しかし、紙パルプ業界や木材業界の圧力を受けて12万立方メートルという伐採量がはじき出されてきます。地元の営林署では現場の様子がわかっていますから、「そんなに伐れません」という。でもケンカをしても立場が弱いですから、結局「では11万にするか」と手を打ってしまう・・・。そんな様子でした。
十勝のヤマリン事件って、聞いたことがあるでしょう? 本当は成長した木を選んで、刻印をして伐るのですが、その刻印が無断で使われてしまったのです。役所と業界から逮捕者が出ました。天然林で国有林だったから、あのような盗伐が起こったのです。国有林を私物化した人々がいたのです。
国有林でももちろん、伐ったあと植林はしていますが、追いついていません。ある地域では50年前に植えられたトドマツがありますが、間伐や枝打ちをしていないので、木材としては使えない木になっています。手入れをしないと、根元からヒゲのように枝が出てくるのです。よく「ウサギも入れない」といいますが、あそこのは「ネズミも入れない」ほどひどい有様で、ああなってしまうと、伐っても節ばかりで、板にはできません。
国有林には特別会計があります。最初は黒字だったんですよ。どんどん天然林を伐って売っていましたから。それが昭和40〜50年頃から、だんだん赤字になっていきました。昭和61年に国有林の費用の内訳を聞いたことがあります。人件費が60%だというのです。人件費の比率が大幅に増えていきました。
国有林特別会計は、3兆8000億円の赤字を抱えるまでになり、1兆円以外は一般会計から補填ということになりました。でも1兆円の借金が残っている。となると、無理してでも残っている木を伐るしかない。そして少しでも高く売ろうと、市況より高く出すことになる。そうして、製材工場などは国有林から離れていきました。
製紙工場にしても、当時世界でもっとも原料が安かったから北海道に来たのです。全国に製品を出荷するために海沿いに工場を作りました。それが今では、世界から安い原料を輸入するために海沿いでよかった、という有様です。
北海道の山林には植林が足りません。どんどん植林をしないと。国有林の林業施策は全国一律という矛盾をかかえています。税金で赤字の森林組合を支えています。この仕組みもうまくいっていない原因だと思います。
私は、国有林を市町村に無料で払い下げるべきだと思っています。釧路町というところでは、国有林を買い上げ、すばらしい町有林にしている。「木を伐らずに森を育てることができる」ということを見せてくれています。ああいう地元の取り組みにしないと。
海外でも、国有林で事業をやっているところはないですよ。米国では国有林は基本的に伐採禁止です。ヨーロッパも営利のための森林はほとんど民有林です。保護するのでなければ、国有林にする意味がないのではないでしょうか。
もちろん日本にも「保安林」という保護対象となる森林があります。伐採量を厳しく制限していますが、実際には伐っています。たとえば、帳簿上の操作で、山に立っている木を「土埋木」(どまいぼく)扱いにするのです。土に埋まっている木、つまりもともとないものとして伐りますから問題にならない。しかし、そんなに土に木が埋まっているはずないのに・・・というほどですよ。
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少し寂しそうにお話を終えられて、コーヒーのお代わりを頼まれました。私もすっかり冷めてしまったコーヒーを見ながら、「国破れて山河あり・・・」を思い出していました。「山河滅びるとき・・・何が残るのだろう?」と。
もうひとつ、風倒木の処分が終わったあとも製材所や製紙工場、作業員が自分たちの仕事を続けるために、必要以上に木を伐り続ける結果になってしまったことを非難することは簡単だけど、でも・・・と思いました。"当事者"にしたら、それは必然であったのだと思います。風倒木の処理のために、北海道に移住した人々もいるでしょう。会社だって工場に投資もしたことでしょう。それを「風倒木がなくなったから、ご苦労さんでした、ハイサヨナラ」とはいきません。それぞれの生活や事業がかかっているのですから。
ここでふたたび、「部分解と全体解」(または点描画)の問題が解けなくて、立ち止まってしまいます。「その部分だけを見れば正しい。が、全体から見ると正しくない」ということがよくあるでしょう。点描画のある一点がどんなに美しい色で塗られていたとしても、全体を合わせて一枚の絵になるのです。
ある問題を解決するために、特別な組織を設置した。問題が解決してしまうと、今度は組織を持続するために、問題を探してくる(どころか作っちゃたりする)という状況も見聞きしませんか。たとえは悪いけど、正常な細胞がガン細胞に変化したときから、ガン細胞はガン細胞にとっては「正しい」ことをし続けるのだと思います。でもそれは身体そのものにとっては「正しくない」。ですからいつか、宿主が倒れるとき、ガン細胞も滅びてしまいます。でもそこまでストップがかからないんですね。地球を宿主とする人間は、現在このガン細胞と同じようなことをしているのだと思います。人類全体としてもそうでしょうし、先日の石炭業界のロビー活動に負けて温暖化対策に反旗を翻したブッシュ政権もそう。
「3%の成長率が 20年続けば経済規模は2倍になる」ことを知りながら、そしてそれは物理的に不可能だと思いながらも、拡大再生産を目指して日夜努力を続ける各国・企業・個人だって、そうなのではないか。ガン細胞が自ら「これでは本当にマズイぞ」と増殖を自らストップできれば、それがガン細胞の"叡智"なのだろうけど・・・。
個人の自由が保障されている民主主義においては、「部分解も満足しながら、正しい全体解を求める」必要があります。そのための仕組みは、残念ながらまだ私にはよくわかりません。でも希望が持てるのは、"叡智"の片鱗があちこちに現れ始めていることです。
そしておそらく大きな鍵を握るのが、何らかの営みを行っている側の「情報開示」と、「断片的・ローカルな情報から、全体像を捉える個々人の能力」ではないか、と思っています。
ガン細胞だって、本当に自分がやっていることがどういう帰結をもたらすのか知っていれば、違う行動をとるかもしれない、と思います。
もっとも「わかっちゃいるけどやめられないのさ」という人もいます。先日欧米の教育心理学的なアプローチの文献を読んでいましたら、「Gladwin、 Newburry、Reisken の研究結果によると(1997) 人間がなぜこれほど持続可能ではないやり方で行動するのか、という問いに対する正直な答えは、まだわかったいない」と書いてあって、がっかりしちゃいました。
でもきっと、「どうやって経済を成長させるか」を研究・実践している経済学者や経済専門家に比べて、これまで重要視されてこなかったから、研究への投資も人材育成も遅れているからなのだろう、と思います。これからの分野だ!と。
心理学や教育などの分野の人々に、もっともっと関わってほしい、自分でも勉強しなきゃと思っています。そのうち書こうと思っていますが、いま「午後の心理学」ということをちょっと考えています。