エダヒロ・ライブラリー環境メールニュース
2005年06月20日
木は50年で育つ大根だ-下草刈りの体験 (2002.01.03)
いま、お正月休みでスキーに来ています。昨日はお天気も良くて、リフトから見える遠くの山々がきれいでした。ところで、皆さんは、山は「動いている」と思いますか? 「固定物」だと思いますか?
とってもヘンな質問だと思われるでしょうけど、これ、私が「鍵を握っている!」とこだわっている点に関わっているのです。
何度も書いてきたことがですが、日本の林業が危機に瀕しています。「裏山に木があるのに、使えない」と、外材(外国産の木材)を製材して生計を立てているある木材業者さんがため息をついていました。日本の林業の危機の原因は、このように外材の攻勢(値段が安いため、とよく言われます)だとされていますが、私はそれよりも大きなもっと危ない原因は、「日本人の木離れ」だと思います。
「木離れ」というのは、「木を使わなくなる」傾向が強まっている、ということです。「木を使うことはいけないことだ、環境破壊だ」という認識がその根底にあるように思います。
前にも書いたように、コレステロールの善玉・悪玉と同じように、「木」にも「使ってよい木」と「使ってはいけない木」があります。実は「使わなくてはならない木」もあるのですが、それらの区別をすることなく、十把ひとからげで、「木を使うことはいけないことだ」「できるだけ木を使わないようにしよう」という風潮が強まっているのは、外材攻勢よりも日本の森林や林業にとっての危機であると思うのです。
特に昨年は、この傾向を強化する法規制がいくつもできました。建設リサイクル法は、ゴミ処分場逼迫の大きな原因である建築廃材を、ゴミにせずにすむように、というゴミ処分場延命策としてできました。これまでは燃やしていた建築廃材をリサイクルして、リサイクル建材を生産するのですから、山からの木を使っての建材はその分使われないことになります。
建築関係でも、品確法その他、品質を重視する法規制ができています。最近、木材業者のMLで、「木は割れるんです」という一連のやりとりがありました。当然、木は自然素材ですから、乾燥したら割れたり反ったりします。
正倉院など、日本の古い木材建造物の中にあるものがこれだけうまく保存されてきたのは、湿気があれば吸って木の隙間がぴたりと閉じ、乾燥してきたら、隙間が空いて換気になる、という絶妙な木の特性があったからこそだそうです。
ところが、今の建築や建設では(法律も、お客の認識も、大工さんの腕も)木はそのように生きた自然素材としては扱ってもらえず、釘やコンクリートと同じように、工業製品として扱われてしまいます。
木の性質による縮みや反れは、「品質」という観点から厳密に排除されます。冬に暖房をガンガン炊いて、室内が乾燥したせいで木にヒビが入っただけで、「木が割れた!」とクレームになってしまいます。木材の癖を見ながら、その特長を活かして家を作ってくれる大工さんは減ってきて、「ただ組み立てているだけ」の大工さんが増えているとも聞きます。つまり、木はどんどん使いにくくなっている、使わない方向に向かっているように思われます。
このような制度上の締めつけ?だけではなく、多くの消費者が「環境を守るためには、森を守らなくてはならない。そのためには木を使わないほうがいい」と思っていることも、実は大きな潜在的なネックになっている、というのが私の印象です。それはどうしてかな〜? とずっと思っていたのでした。
で、最初のヘンな質問に戻るのですが、私たちの多くが、森林を「固定物」として見ているのではないか、と思うのです。私自身も、あちこち見学に行ったり、山に行ったりするまえはそうでした。固定物というのは、「そこにあるだけでオシマイ」という感じです。「取ったらなくなる」。だから「取ってはいけない」につながります。だって、遠くから森林を見ると、固定物に見えますものね。
でもそうではないのですね。木は、50年、60年かけて成長しますから、その成長ぶりは目には見えにくいのかもしれません。遠目には成長している様子が見えにくいのですが、でも成長しているのです。
たとえば、稲や大根を育てている農家に、「もったいないから、収穫せずに、そのままにしておきなさい」といったら、何を馬鹿なことを、という顔をされるでしょう?
稲も大根も、1年という周期で、植えて、育てて、収穫します。秋に稲刈りをしても、次の春にはまた田植えをすることがわかっているから、「刈ってしまってもったいない!」なんていわないでしょう? 刈らずにおいたら、来年田植えもできない。刈らずにおいたら、これまでの手間賃もでないから生活できなくなる。刈れないのだったら、稲を作れなくなる。それはよくわかるでしょう?
稲や大根は1年という周期ですが、木は周期が50年、60年になっただけの話で、あとはまったく同じことなのです。木は「50年で育つ大根」なのです。育った大根は収穫して、売って、食べてもらって、売上金で翌年のタネを買わないと回っていきません。だから本当は、「環境を守るためには、森を守らなくてはならない。そのためには木を使わなくてはならない」なのです。
でも、その成長周期が長いために、成長している様子がわかりにくい。切ったらもうなくなってしまうように思える。だから「森を守るためには、木を使ってはならない」になってしまうのではないか、と思っています。皆さんは、どう思われるでしょうか?
「森林は成長している」ということは、山で仕事をしている人には当然のことなのですが、生活の中で山に関わりのない私たちには、なかなかわかりません。私が「山は成長している、生きている!」ということを「実感」したのは、昨年の9月初めに、奥多摩の山林に連れて行ってもらったときでした。
このときは、大人・子どもあわせて10数人で、下草刈りの体験をさせてもらい、賑やかに楽しい1日を過ごしました。いっしょに参加した小学5年生の書いた作文を許可を得て転載させてもらいます。
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山の大切さ、木の大切さ
私は、日曜日に家族で奥多摩の山につれていってもらいました。
はじめに、下草がりをやらせてもらいました。妹と、お父さんが近くの川で遊んでいる間に行きました。かまをとぎ石でとぎ、よく切れるようにしました。かまをとぐときに、かまで指を切りそうでこわかったです。
とげたので、自分でといだかまをもって植えてあるところへ行きました。すると、「そこには、一年杉と三年杉が植えてあるんだよ。」と教えてくれました。一年杉って、学校の一年生みたいでおもしろいなぁ。その杉のまわりに雑草がたくさん生えていて、つるもからまっていて杉がくるしそうでした。
いよいよかまでかります。はじめはこわくてゆっくりやっていたけれど、だいたいこつが分かったので、どんどんかっていきました。ずっとかまをもっていたので指が痛くなってしまいました。体もあせでびっしょり。
だいたい終わって、かった所を見てみると雑草でうまってくるしそうだった杉がすっきりしてすずしそうでした。私達でも、下草がりができるんだな、と思いました。
この山の持ち主の池谷キワ子さんにいろいろなお話を聞きました。
「もし、だれも森や山のていれをしなかったらどうなるか。まず、山の木が、くさったりして、だめになってしまう。それに、大雨などがふったときに木がないと、洪水や土砂崩れがおきてしまう。反対に日照りになると、水がかれて水不足になってしまいます。」
「木がないと、人間がだしている二酸化炭素を酸素にしたり、空気をきれいにできない。」とお母さんからも聞きました。
今、一番こまっていることは、山のていれをする人が少なくなっていることだそうです。なぜかというと、他の国から、安い木が輸入されていて、山の木が売れないからです。私達が使っている、紙や家具などの、約80%が外国の木だときいてびっくりしました。
私は、木には紙など以外にも日照りや、洪水などの災害から守ってくれる力があるんだなぁ、だから、木や山を大切にしないと大変なことになるんだなぁと思いました。
杉の育て方には、苗育て、苗植え、下草がりなどがあり、それから枝打ちがあります。枝打ちには、空開けといういい方があり、枝をきって空を見えるようにする、ということだそうです。次くるときは、その空開け(枝うち)のお手伝いもやりたいと思っています。
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まえにも書きましたが、林産業従事者は日本の人口の5%ぐらいだそうです。少数派ですから、民主主義のルールのもとでは、声や思いが通りにくい。自分たち以外、つまり一般の人々や消費者をどれだけ「味方」につけられるかが、林産業の生き残りの鍵を握っているように思います。
「木が育つのは当たり前でしょう」「木が割れるのは当たり前でしょう」ではなく(当たり前に思っていない人も多いのですから!)、このような体験の機会を手を変え品を変えして提供していくことは大切なことだと思います。
「木が割れる」ことについては、私はまえから「小学校に、木材セットを贈る運動を始めたら?」と木材業者さんにいっています(相手にされていませんが。木材セットといっても、木工用のセットではなくて、杉の丸太の輪切りやヒノキの切り株を校庭や校内のどこかにゴロンと転がしておくだけです。
別に何も教えなくても、「木には匂いがあるんだ」「木によって匂いが違うんだ」「置いておいたら、ひびが入ってきたね」「雨が降ったら、ひびが閉じたね」ということ、一部の子どもでもおもしろがると思うのですよ。
そして、私たちもできるだけ機会を見つけて、森や山で「木の成長」を実感して、「これを切らずにそのままにしておいたら、どうなるか?」にもちょっと思いを馳せたいですね。
下草刈りで「実感」したもうひとつのことは・・・山での作業は達成感がある!ということでした。慣れないながらも長い鎌を振るって下草を刈りました。まず、鎌でさっさっとおもしろいように草が刈れるのが快感(短時間の体験だったから、かもしれませんが)。そして、汗をふこうと手を休めて目をあげると、その5分なり10分なりで、自分が刈ってきた山の斜面がきれいになっているのですね。
自分の作業の結果がこんなにすぐにありありと(だんだんうまくなっていく様子までわかります!見えることはないので、とても胸弾む思いで、「もっと、もっと」と力を入れてしまいました。とっても楽しかった。そして、汗をかくのがとても気持ちよかった。今年もぜひ行きたいな、と思っています。