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エダヒロ・ライブラリー環境メールニュース

2005年10月15日

鋸谷茂さんの間伐講議(2005.10.14)

森林のこと
 

[No.1137] の「木と森にまつわるいろいろ」で、「鋸谷式間伐」という言葉が出てきたのですが、すぐに詳しい情報を教えて下さった方があります。
『神流アトリエ/SHIZUKU』 (旧『未来樹2001と大内正伸のホームページ』)

このウェブサイトのコンテンツ「林業と自然」の中に、「鋸谷茂さんの間伐講義録」があります。

本はこちらです。

『鋸谷式 新・間伐マニュアル』 監修:鋸谷茂、著・イラスト:大内正伸 (全林恊\850)

『図解 これならできる山づくり──人工林再生の新しいやり方』 鋸谷 茂・大内正伸著(農文協\1,950)

掲載されているウェブページいただくことができました。

ご紹介下さった方が、大内正伸さんと鋸谷茂さんの許可を取って下さったおかげで、同ホームページより、『鋸谷さんの間伐講議/2001.6.16』主催:森づくりフォーラム 於:東京都あきる野市『止水荘』より一部をご紹介できます。ありがとうございます。

林業について、あまり世間では聞かれないような現状や考え方、いろいろと考えさせられます。
http://www.shizuku.or.tv/forest.html

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ここから引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

皆さんおはようございます。ただいまご紹介にあずかりました鋸谷でございます。
今日は私の提唱する林業の話、とくに「間伐」の話をさせていただきたいと思います。

           ☆

私は自分で山林を所有する他に、仕事として福井県の林業改良指導員、あるいは林業専門技術員という仕事にたずさわっておりまして、以前から森林施業のやりかたというものに対して、常づね疑問を感じておりました。

まず、木材というのは、人間が使い勝手がいいように、非常に変型した形で育てているものでございます。それがはたしていいのかどうか? そういうことで疑問を感じておりました。木材が順調に使われているときであれば、それでもいいのでしょうけれども、今のように木材が非常にダブついてきた状態になったときに、それではうまく成り立っていかない、それは当然のことでありまして、やはり本来の育て方、林業本来の技術というものに戻るべきではないか、というようなことを感じておりました。

同時に「下刈り」あるいは「雪起こし」「間伐」「枝打ち」「植栽」そのもの、そういうものを、やはり根本から見直すべきではないか? ということで、私が10代の時からそれなりに研究というか実験というか、そういうものをやってまいりました。

本格的に一般の林家、あるいは一つの地域に対して普及を始めたのは今から6年前でございます。それは福井県の大飯町(おおいちょう)という所でございます。原子力発電所がたくさんある所なんですが、そこで始めまして、林家の方、森林組合の職員の方、あるいは作業班の方、それを取り巻くわれわれの同業者、いわゆる林業改良指導員、まあこういう関係者がですね、同じ目的意識を持たないとなかなか新しいものというのはできないものでございます。たまたま、協力者が得られましたので、うまく取り組むことができました。

取り組み始めまして、山が良くなるのは当然でございます。山が良くなるのは当然でございますが、その作業効率ですね。1年間通しました1人の作業班の作業効率でいいますと、毎年20%、少ないときでも15%くらい、3年間で連続して効率が上がってまいりました。効率が上がるということは、当然作業班の賃金として反映してくるわけでございまして、3年間、毎年平均100万円ずつアップしてきたのです。ですから、トータルでどのくらいアップしたかは申し上げませんけれども、だいたいご想像いただければと思います。

私は、とくに山で働いておられる方、この方の社会的地位というものを絶対的に上げなければいけない、という信念を持っております。われわれ公務員のような人間はですね、どうも山で働く人を見下げるような意識をもっている、というのが現実でございまして、それを根本的に変えたい。少なくとも、所得は最低で年間500万円は保証、まあ経験年数でいえば2年から3年の経験年数があればですね、まあ私どものやり方であれば500万円は最低保証できます。プラスアルファは1.5倍から2倍くらいまでの範囲で、というやり方で仕事をしていただいております。

ですから私が取り組み始めてわずか6年でございますけれども、作業班の方が、最近は家を建てるようになりました。年間、自分たちの所得がですね、300万円多く入るということになりますと、10年たてば家が建つな、と。こういう計算ができるわけでございます。やはりそこが山を良くしていく根本的なところじゃないかな、と私は思っておりまして、そのように取り組んでまいりました。

そのような取り組みを、今日は具体的にご紹介したいと思います。今日は2時間の時間をいただいておりますけれども、まず最初の30分強は林業そのものはどういう状態なのか、というようなお話をさせていただきたいと思います。その後、今日の課題の「間伐」というものに対する取り組み方、考え方のお話をさせていただきたいと思います。申し訳ないんですけれども、連続して2時間やらせていただきたいと思います。トイレに行きたくなった方はご自由に行って下さい。足も伸ばして聞いてください。ここはタバコも許されるようですので、隣近所に迷惑のかからない程度にお願いしたいと思います。

          ☆

まず、林業に対する考え方ですけれども、一般的にですね、やはり日本の林業というのは、本来儲かる産業ではなかった、ということを今一度認識していただきたい。たとえば江戸とか京都とか大阪とか、こういう都市近郊、従来からの都市近郊の林業地域、あるいは天然林、天然のスギ・ヒノキがあった地域、こういう所ではたしかに儲かる産業であった。

ところがその他の一般のところでは、山を持っているだけで負債だった、というような状況が、ごくごく最近まであったわけでございます。私たちの所でもそうです。奥山を持っている、標高1000m、2000mに近いような所の山を持っている人はですね、昭和の20年代30年代、このときに、木材がどんどんチップとして売れるようになりました。そのときでも、もう山なんかいらない、だから「買ってくれ」と言って、国有林がどんどん買いました。で、国有林はそれを買って、立木だけを売れば、土地代はタダになったわけです。そんなことで、国有林もどんどん土地を買ったわけです。それぐらい林業というのは一般の人にとっては儲かる産業ではなかった。

こちらのような西多摩地域の山では、おそらく江戸の大火などの「特需」が定期的にあったわけですね。だから、そういうところでうまく経済性が出てきて、儲かる商売であったのかもしれません。一般的に言えば儲かる産業ではなかった、ということです。

それが現在、今日、従来儲かる所も儲からなくなってしまった。これは、まあ一般的なところへ帰った、ということで、決して特殊な事情ではないと、私は今の状況を考えております。林業そのものが成り立っていったいきさつなんかを見ましても、林業の投資というのは「余剰労力」「余剰資本」こういうものを投下した、その蓄積がある所が林業として成り立ってきた。

例えば天竜なんかそうなんですが、杉林があったらですね、それをそのすべてを伐採せずに、1割から2割くらい残して、その残し木がいちばん金になって、天竜の林業地をつくった、というような歴史もあるわけです。農業でも林業でもそうなんですが、これは蓄積経済なんです。消費経済ではございません。ずーっと積み重ねていって、ある一定の水準になった時に、初めて産業として成り立つわけです。

今の日本の林業というのは、戦後の木材特需ですね、戦争によって住宅が壊滅的に焼かれました。それに伴う特需があったために、どんどん木を伐った。儲かるからまた木を植えよう。天皇みずからが全国行脚して木を植えさせた。もう神話に近い木の植え方です。それによって1000万haというような膨大な人工林ができたわけです。これが今、元の状態に、特需がなくなって、普通の状態に戻った。普通の状態に戻っただけなのに「もう林業は儲からない」とみんな言っているわけですけれども、決してそうじゃないんです。本来儲かるものじゃない。

だいいち林業というのは「金利経済」が成り立たないのです。たまたま昭和20年から40年後半、あるいは50年前半にかけて、たとえば100万円を林業に投資したら年間6%とか8%とかの金利がついて、将来帰ってくる、という計算が成り立ったわけです。ところが今そういう計算は絶対成り立たないですね。林野庁は0コンマ何%儲かるなど数字を出していますけれども、とんでもないです。これは完全に赤字でございます(笑)。100万円投資したら、計算上ですよ、60年たったら100万円が80万なり70万円になっているわけです。それが現実です。しかし本来そういうものなのです。「余剰労力」「余剰資本」を投下していたから、投資を0に見て、儲かる儲からないの話をしていた。

それともう一つは、林業というのは経済変働・経済システムが切り替わったときに、相対的にボンと価値が上がるわけです。たとえば明治維新とか、あるいは最近ですと戦後ですね。林業というのは延々と同じレベルで来るわけですけれども、戦後のいわゆる社会経済システムが変わったときに、経済の変動でドンと一般的なものが下がるから、相対的に高く見える、というだけのものです。それが従来は60年とか100年くらいのサイクルの中で変わってきたわけで、(江戸などの)都市周辺においてはそれがもっと小さなサイクルの中で成り立っていた。というようなところじゃないかな、と私は考えているわけですけれども、私は学者じゃございませんので「おまえバカ言ってるな」という方もたくさんいらっしゃるかもしれません(笑)。

           ☆

では、どんな森をつくっていったらいいのか? という話に移ります。いま森づくりに対して林野庁などがどんどん「こうあるべきだ」というようなことを出しているわけですけれども、80年100年のものをつくっているのにもかかわらず、林野庁は2年か3年に一度ずつ方向を変えていくわけです。

私も行政の中にいる人間でございますけれども、日本全国どっちの方向を向いたらいいのかというのがさっぱり分からない。戦後の昭和20年代から40年代にかけての「とにかく木を植えよう」ということだけがひと世代続いたわけです。それから後というのは、もう林業がダメだと言い始めた昭和50年代半ばからですね、2〜3年ごとにコロコロ変わっているわけです。最後には、森林ボランティアの皆さんにお願いしてなんとかしようかと、一生懸命やっているわけですけれども。

では森林ボランティアの方々がどういう山づくりをしたらいいのか? という方向性はまったく示していないわけです。従来の間伐のやり方、従来の木の植え方をやればいいのじゃないだろうか、というようなところです。こういう山づくりをしようという方向性が全然見えない。

そこで、私がこれから申し上げるような山づくりをすればいいのじゃないかな、というのが私のお話しでございます。

まず、今の人工林でございますけれども、現在の人工林というのは先ほども申し上げました通り、人間が利用しやすいために「太く、長く、より多く」つくることだけを考えてきた。この考え方というのは、農業的な発想なんですね。山を畑と考えて、畑にダイコンをつくるように、より太く、より長く、より多く、採ることだけを考えてきたのです。

では、畑というのはどういう状態かというと、ダイコンだけがあって、他のものはすべて「悪」でございます。雑草は1本も生えさせない。今でも田んぼはそうですね。農業というのは本質的にそういうものです。それから、農業というものは、水を灌水する、肥料をやる、人工的にそれを与えることによって、ものをつ
くるわけです。そういうことをするから、他のものをなくしてでも、雑草をなくしてでも、成長させることができるわけです。

林業というのはそんなものじゃないですね。林業というの肥料分というのは本質的にやれるものじゃありません。一部の篤林家の方は肥料をまいて、施肥の林業をやっておられますけれども、あれは特殊なことでございまして、よほど地味の悪い所、土地が肥えてない所であればいいですが、通常の山で肥料をやりますと、枝打ちも何もしないでやりますと、スギ林ですとスギカミキリが多発いたします。私どもの隣の県などはスギカミキリが大発生いたしまして、昭和40年〜50年代に施肥をしたばかりに、今はもうスギなんて見れたものじゃございません。どの山に行っても半分以上はスギカミキリの被害を受けているという状況でございます。

また「より太く、より長く、より多く」ということで、必要以上の長さと材積を求めたことで、過密な状態を人工林の通常の状態だというふうに勘違いをはじめた。これは、昔からの林業地では20年なり30年、長くても50年60年で伐採して市場に出したわけですから、さほど問題にはならなかったわけですけれども、もう50年60年で伐れない、ということになってまいりますと、これが大きな障害になってくるわけです。どんな障害かというと、それは生物の循環機能がなくなってくるということです。

それは何かといいますと、これは生物の基本なんですが、自分の排泄物で自分を育てるということは、生物は本来できるものじゃないんです。自分の排泄物を他の生物が分解するなり食べるなりして、それをまた他の動物が食べて、その死骸がまた分解して、また人間に還ってくる。生物は循環することによって全体が生きていけるわけです。

今の人工林の姿を見ますと、スギの林はスギしかないわけです。スギから落ちた枝葉は生物が分解してくれて、またスギが吸収しなければいけない。そこにはスギが必要とする養分はどんどん少なくなる。ですから北山スギに代表されるように、何代も更新していきますと、やはりそこには施肥というものが必要になってきます。では、日本中の山にそんなことができるかといいますと、そんなことできるわけがない。そんなことをするという考え自身が、人間のあさはかな考え方であると、私は思うわけです。

皆さんのお手元の資料に、「人工林の特徴」という紙があると思いますが。これはいま私がここでお話している手元の資料のコピーなんですが、ここに森林の植生の荒廃した状況というのはどんなものか、というのを表にしてみました。この下の表を見ていただきたいんですけれども、健全な森林がどんなものかといいますと、中層の植生が完全にあって、その中層木が樹冠を形成している。健全な森林かどうかの一番大きな目安というのは、この中層木でございます。いま下層植生、下層植生と、間伐して下層植生を大事にする、というようなことが言われておりますが、実はそれだけでは十分ではありません。では中層の植生というのはなぜ大切かといいますと、上層が何らかの理由で折れてしまう。そのときに、中層があればそれをすぐ補ってくれるわけですね。

<ホワイトボードに絵を描く>
上層木があって、中層木があって、下層植生がある。これが本来の森林の健全な姿なんです。これを(上層木を)人間が必要なために伐っていく、なくしていくといったときにどうなるかというと、いまの山ですと、ここが全部なくなってしまう。まったく何もない状態になってしまう。これが今の人工林なんです。山にとってはすごいストレスでございます。だから災害も当然起きてまいります。ところが、ここに中層木があることによって、これを(上層木)をなくしても中層木が大きくなる。これをすぐ補ってくれる。

山が健全か健全でないか? これは上層木と下層植生の関係でなしに、この中層木があるかないか、これが大事なんです。で、こういう山、実は日本中にいっぱいあるんです。針葉樹林です。皆さん気がついていないだけで……。そして、上層木がなくなったことによって、大被害が起こるべきところが、ほとんど発生していないということが、ここ20〜30年間、日本全国の山に起きているのです。それは何かというと、アカマツ林です。

アカマツ林は、30年ほど前から、マツクイムシで大被害を受けています。日本中、標高500〜600m以下の日本中のアカマツはどんどん枯れていきました。ところが、これが枯れても山はどうでしょうか? マツが枯れたことによって、山が崩壊したという話はどれほど聞かれたことがあるでしょう? ほとんどないはずです。たとえば瀬戸内海のようなところ、瀬戸内のあの地域ですね、あそこはマツしかないような所でございますけれども、あそこにもしっかりと下層植生、中層木がありますから、山じゅう真っ赤になっている中に、3年ほどしますともう緑の山になっていきます。この中層木こそが、山の森林の健全な状態を保っている。

このように現実的な例があったわけです。中層があるかないか、これが山が健全かどうかの一番大きなポイントである、と私は考えております。

下層植生も、健全な状態であれば密生しておりますけれども、極相状態になってまいりますと、この下層植生がなくなります。<ホワイトボードに絵を描く> たとえばブナ林とかナラとかですね、そういうものが大きくなりますと、上層と中層は残りますけれども、下層がなくなりまして、そこには落ち葉がいっぱいたまってきます。こういう山になっているわけでございます。自然の山へ行かれるとよく分かります。このあたりですと、ツバキとかソヨゴとか陰樹性の高い、中層木がいっぱいありまして、下には落ち葉だけがある。下には草が生えていない。あれが悪い山だという人が、中には最近出てまいりました。私はとんでもないといって、私は言っているのですが……。

下層植生が大事だといわれているので、極相状態になった山の中層木を伐って、下層を生えるようにしたいんだ、というようなことを言っている人間が私の地元にはたくさんおりまして、植生というものを全然理解せずに、山をもてあそんでいるというような状況が出ております。

(後略)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用ここまで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

つづきは、上記ホームページや書籍でどうぞ。

 

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