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エダヒロ・ライブラリー環境メールニュース

2010年09月06日

「岡山県 西粟倉村の取り組み『100年の森林事業』に携わって」(2010.09.06)

森林のこと
 

[No. 1839] で西粟倉村の取り組みについてご紹介しました。Iターンで西粟倉村役場に勤務されている松島優子さんが、さらに詳しい文章を書いて下さいましたので、ご紹介します。

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岡山県 西粟倉村の取り組み『100年の森林事業』に携わって                         
                                        松島 優子

西粟倉村の存在を知ったのは、昨年の2月でした。その時、私は神奈川県の森林行政に携わっていましたが、人工林の荒廃を村一丸となって食い止めようとする「100年の森林構想」を掲げる西粟倉村に衝撃を受けました。

そして縁あって、3月に初めて村へ訪れた折に、役場の方々から村がこれから実行しようとしている「100年の森林事業」のことを直接、伺いました。いつかは地域の人たちの顔が見える森づくりがしたいと思っていた私は、担当の方々のこの事業にかける熱い思いに触れて、いよいよここでの仕事に魅力を感じました。また幸運なことに、役場でも森林関係の経験がある人間を探していた、ということで、私は、その1ヵ月後の4月末には、Iターン者として村に移住することとなったのです。

西粟倉村は、岡山県の最北東に位置する約58Km2の村です。2004年に合併の波を乗り越え、自立の道を選びました。

人口約1600人、高齢化率は33%、少子化、過疎化が進んでいます。また、土地面積の95%を森林が占め、そのうち86%がスギ・ヒノキの人工林です。それら人工林の多くが40〜50年生で、林業不況、担い手不足などによって、ほとんどが手入れ不足となっており、林床には下草が生えず、立木が混み合い、やせ細った森林となっていました。

こうした現状を踏まえ、今後、西粟倉村が元気に生き残っていくにはどうしたらよいのか。そこで道上村長が考えたのが「100年の森林構想」でした。

「約50年生にまで育った森林を、あと50年先まで生かしていこう。先代から受け継いだこの財産を子や孫の代までつなげて、西粟倉村を美しく上質な田舎にしていこう。」というのがコンセプトです。

村に溢れる人工林を資源と捉えて再生し、木材生産の活性化をきっかけとして、村内で循環する経済、「小さな経済」の実現を目指しています。環境保護やCO2削減を目的とした森林整備の話はよく聞かれますが、こうした地に足のついた、地域経済のための森づくりこそ、今まさに求められているものであり、本当の意味で持続可能な森づくり ではないかと感じました。

「100年の森林事業」とは、この「100年の森林構想」を実現するための、具体的な事業のことなのです。

この事業は、大きく二つに分かれており、その一つが役場で実行する「100年の森林づくり事業」、もう一つが「森の学校事業」です。言い換えると、前者は木材を生み出すための入口の事業、後者は搬出された木材を流通させ、販売する出口に関する事業です。林業を成立させ、雇用を創出し、経済を循環させるためには、この両面から攻めていく必要があります。

私は、正式には雇用対策協議会という村の組織に雇用され、役場に出向するという形で「100年の森林づくり事業」に携わっています。実は、この協議会というのも地域づくりの立役者であり、ここ3年間に、家族も合わせて40名ほどのIターン者を村に呼び込みました。

では、「100年の森林づくり事業」とは、具体的には何をするものなのか。

まず、森林をおおむね50ha前後の団地に設定し、その中に該当する土地の森林所有者と「長期施業管理に関する契約」を締結することから始まります。「長期施業管理に関する契約」というのは、森林所有者・西粟倉村・美作森林組合との3者契約となっており、主な内容は、土地の地上権、所有権は変わらず、森林の取りまとめと間伐や作業道の開設といった森林整備の監督役、費用負担を村で行い、実際の森林整備を地元の森林組合に委託するというものです。

そして、私たちは、この契約に基づき、預けてくださった森林所有者に成り代わって、時には現場へ赴き、森林組合と協力しながら、適切な森林整備を実行します。また施業費となる補助金の調達、支払いなどの事務も行います。

西粟倉村は、約40年ほど前に、家畜のための採草地であった村有地を村民に払い下げました。それらは各戸で一斉に植林され、所有規模が1haにも満たない零細な森林が多く生まれることになりました。

木材が価値を持っていたはじめの頃は、こぞって立派な木材を生産するため、森林の手入れをしましたが、燃料革命、木材輸入、都市への人口流入、核家族化など、さまざまな時代の変遷により、木材価格が下落しました。結果として、木を大きくするための間伐まで手をかけられなくなった家庭が増えてしまったのです。

私たちは、そうした遅れた間伐の促進のため、また間伐の効率化、省力化のためにも、零細な森林を団地化する必要があります。また、それまで個人単位で開設してきた作業道も、森林を団地化することで、ある程度広範囲の利用を見通した、地形的にも無理のないルート設定が可能になります。作業道は、間伐の作業効率を上げるだけでなく、少しでも間伐材を多く搬出し、市場に流通させるためにも必要不可欠なものなのです。

しかしながら、本格的にこの事業が始まって約1年半、作業道の開設も含め、なかなか思うように森林整備が進まないのが現状です。というのも、森林の団地化に至るまでの森林所有者との交渉、森林組合など各組織との連携の未熟さなどがハードルとなっているからです。

なかでもポイントとなるのは、森林所有者との交渉です。月に2回ほどのペースで開催している事業説明会では、例えば50名に案内を送付して、実際に参加されたのは、たったの1割にしかならない5名だった、ということもありました。

また所有者の約3割から4割を占める不在村森林所有者の存在も挙げられます。住所が分からず、集団間伐の案内さえお届けすることができない方や、遠方にお住まいのため、説明会に参加することが出来ず、やりとりが電話や文書のみとなってしまう方がいます。こういった方々は、そもそも森林のことに関心が無かったり、事業の重要性を理解していただけなかったり、契約までに時間がかかったりとさまざまな障害が起こります。

また在村森林所有者にも、森林に特に思い入れがあり、なかなか委託に踏み切れない方、単純に興味がなく、良く分からないからという方、森林整備はしてほしいが作業道は入れたくない、またはその逆の、作業道は欲しいが、森林整備は自分でする、などといったさまざまな考えを持たれている方々がいます。

当然、進んで契約を締結してくださる方もいらっしゃるので、契約済み箇所を色付けしている地図は、まるで虫食い状態になります。これでは、団地化と呼ぶにはあまりにもまばらで、なかなか森林組合も施業に踏み切れません。

これらの問題を解決するには、所有者に対するアプローチの仕方、連絡の段取り、いろいろなやり方について検討する必要がありますが、そもそも根本的な原因は、コミュニケーション不足にあるように思います。

私たちは、事業説明会に来られなかった方と契約を結ぶため、直接、所有者さんのお宅に伺い、お話しすることがあります。すると、往々にして「ええで。任せるわ。」と言ってくださいます。当たり前かもしれませんが、こちらからの案内に対して何の反応もないということが、必ずしも事業に対する反対を意味している、ということではないということです。

所有者さんには、ご高齢の方も多いため、体調がすぐれず参加できないという方もおられます。夜の説明会だから出歩くのが不安で行けない、という意見もありました。そして、こちらから出向いていくと、快く話を聞いてくださり、懐かしい昔話しなどもしながら、いつの間にか契約してくださっている、という場合があるのです。

以前、幼いころに家族揃って植林し、真夏の炎天下で下刈り、枝打ちをしてきた、と懐かしそうに語って下さった方がいました。もう山には入れないほどのご高齢になっていても、自分の山林のことはよく覚えていて、空で地名や隣の所有者さんのことを教えてくださったりもします。

昔は、木そのものが貯金であり、家族の一大行事には、選んで伐り出すという営みがあったそうです。そうして見えてくるのが、地元の方々が古くから培ってきた山と共に生きる知恵、経験であり、かつて賑わっていた村の風景でした。 

私は今、この事業を成功させるためには、こういった所有者さんとの対話に、最も時間を割かなくてはいけないような気がしています。そこからヒントを得て、以前は当たり前にできていた森林と人との共生のバランスについて考えます。

森林所有者さんと森林への思いを共有しながら、過去を繰り返すのではない、今の時代に順応したもう一つの共生の仕方を見出す必要があると思うのです。

先人達が培ってきた木材との暮らし方は、現代に同じように実現することは困難です。それでも、また森林や木とともに豊かな暮らしをしていくためにどうすれば良いのか、ということについてさまざまな角度から模索しているのが、出口の事業である「森の学校事業」です。

昨年10月に株式会社化した㈱西粟倉・森の学校は、間伐材を用いた商品開発を中心に、西粟倉そのものを売り出すための、さまざまな取り組みを始めています。

その一貫で、当事者達が見聞を広げるために、この頃、よく開催されている勉強会があります。その時、講演に来られていた建築士の先生の言葉が、強く印象に残りました。「都会のオフィスの中で、もくもく(木々)した製品は馴染みにくい。あえてスチールなどの別の素材と組み合わせることで、それぞれの良さが際立つし、雰囲気にも馴染む。」と言われたのです。

同時に、以前、何でもない会話の中でも、森林に詳しい地元の方に「腰板がええんじゃ。家の内装が全部木目だったら、落ち着かんで。」と言われたことを思い出しました。

共生というのは、まさにそういうことだったのかと気がついた瞬間でした。一見、相容れない存在同士でも、それぞれの特徴を生かし、お互いに持っていない能力を補完し合って、両者が成立する。それが共生なのだと思ったのです。

私は、かつて希望を持って森林づくりをしていた森林所有者さんと対話をしながら、この新しい森林との共生の仕方を提案していく必要があると感じました。それは、森の学校が生み出す新しい木製品のことかもしれません。森林があるからこそ、この村へやってきた若い木工職人や芸術家の存在かもしれません。

一度見失ってしまった出口が今はまだ見えないから、新たな一歩を踏み出せないのかも知れないのです。これからの未来に、こうした新しい森林との共生の仕方があることを実感できれば、より多くの森林所有者さんに「100年の森林づくり事業」が理解していただけるのではないかと思っています。

地元のみなさんにとって、見知らぬIターン者は不思議な存在のようです。でも、お話ししていると「何もないとこやけど、辛抱してな。」と地元のご年配の方から申し訳なさそうに言われます。森林の契約をしにきた私に、「また遊びに来てな」と笑顔で見送って下さる方もいます。縁側で見つけた蜂の巣を取って、ニコニコしながら、まるでいたずらっ子のように蜂の子を見せてくださったりする方も。森が人と私をつなげてくれていると感じられる、とても楽しいひとときです。

土地のことを何も知らない私が、都会で暮らしているときよりも安心して暮らせるなんて思いもしませんでした。地域の人たちが、温かくたくましく感じられるのも、おそらく、彼らが地域の魅力を良く分かっている、魅力とは気がついていなくても、さまざまなことを受け入れ、心豊かに暮らしているからではないかと思います。

それは、自然であり、先人の知恵であり、まだ見ぬ何かであるはずで、外から来た私達はそれらを最大限に尊重しながら、新しい空気も取り入れていく、そういう役割が課せられている気がします。変えようとするのではなく、お互いが生き生きできる道を探る過程で変わっていく、それがもう一つの共生であり、「100年の森林づくり事業」の目指すところではないでしょうか。

すでに西粟倉村は、大きな一歩を踏み出しました。そして、その森林と私を結びつけてくれたのは、魅力的な「100年の森林事業」であり、本当の意味で事業を生み出した「人」であったと確信しています。森林だけでなく、まだ目に見えない、おそらく気がついていないだけの豊かな資源を、これからも探して、地域の方々と共有していくことが、この先も長く受け継がれるべき森林や地域づくりというものに繋がるのではないかと思います。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用ここまで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

そして、松島さんからいただいた追加情報です。

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7月現在昨年の9月から説明会を実施した団地数は、8団地

契約面積は、団地内外含めて全体で 約400ha契約筆数は1400筆を越えました。

契約所有者数は、正確に数えてはいませんが150名以上かと思います。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用ここまで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

着実に前進しているのですね! 

数字だけではわからない、現場の息づかいを感じさせてくれるレポート、森林に関わる日本中の方々に勇気と励みと多くのヒントを与えてくれることと思います。

松島さん、ありがとうございました! 
またようすを教えていただけることを楽しみにしています。

 

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