私は3.11後のゴールデンウィークの12日間、緊急支援活動を展開していたJENのお手伝いに入り、その後も何度か支援に行っていました。
JEN:http://www.jen-npo.org/
この8月に、久しぶりに石巻におじゃまして、JENの石巻の活動拠点撤収を受けて、サードステージという団体を立ち上げて活動している杉浦達也さんを訪ねました。
サードステージ:http://thirdstage2016.wixsite.com/ishinomaki
震災直後の大変だった頃に、短期間とはいえ、同じ釜のごはんを食べながら(私は主にごはんの準備などのサポート役でした)過ごした仲なので、特別な思いがあります。
震災から5年半近くたって、当時は憔悴しきったみなさんにはとても聞くことができなかった被災時のお話や、石巻での新しい動きなど、杉浦さんにいろいろとお話をうかがうことができました。私が作成した原稿を、杉浦さんたちが仕上げてくれましたので、週末の3日間にシリーズとしてお届けします。
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<被災から、JENでの活動へ>
3月11日、出先からの帰りに、大地震が起きました。その数十分後に大津波が襲い車が流されたり、流されてくる方々を助けたり、まわりでパニックが起きていましたので、お互いに助けたり助けられたりしながら......。夕方になり、まだ小雪がちらつく寒い中、山の上で一夜を車の中で過ごしました。
二日目の日が昇り、山の上から見下ろした町は黒く見えました。
日の出と共に動こうとしたその時、ガソリンがなかったんです。前日は小雪が降ったりと寒かったので、車中エアコンをつけたり、周りの対応で気づいてはいませんでした。石巻あたりでは、土日がガソリンの安い日になっていて、震災は金曜日だったので、次の日にガソリンを入れようと考えていた人が多かったと思います。私は、安全な所に車を置いて、徒歩で親戚や知人を探しに向かいました。
市内中心部に向って行くと、ほとんどが水没していて通れる道が全然なくて。実家の裏側に土手があるんですが、そこの一本道だけが通れる。そこを何百人という人が行き来し、みんなで情報交換しながら歩いていました。
日が暮れてきて、友だちには会えたのですが、探していた人たちには会えず......。暗くなってきたので、近くの母校だった中学校の避難所に行きました。人探しをしながら。そこには不安を抱えた人たちが行き場を探しに、そして人を探しに何百人と集まっていました。
避難所での1日目、2日目は、何も食べられない状況でした。3日目も人探しをしていました。行けるだろうと思った所が全然行けなくて。周りからの情報とか、知り合いからの情報で、「あっちは通れるよ」とか「こっちは絶対無理だ」とか、中には、「あそこの橋が沈んだ」とか、「物を取り合って殺人がおきた」など、ウソの話も出始めましたが、そういう情報が飛び交う中で少しずつ情報を仕入れて。でも、3日目もあまり動けなかった。
確か、3日目の夕方だったと思いますが、山側の農村部で会社をやっている方が、保管してある冷凍の饅頭をその中学校に届けてくれました。1人1個だったんですけど、あまりにも避難所に人が集まったものですから、1人1個配れない状況で、半分ずつ食べた記憶があります。
――最初は口争いとか、「おまえ、あっちへ行け」というようなこともあったし。徘徊している認知症のおじいさんもいました。その人も、家からどこに行くか分からなくなったみたいで、徘徊して廊下でトイレをして汚したり、知らない人の隣で寝てしまったりしたみたいで。
たまたま私の隣に来たので、私が息子だと勘違いされて、周りの人たちからすごく文句を言われたりしました。私はヘルパーの資格を取っていたので、自分のできる範囲でお世話させてもらっていたら、後から施設の人がおじいさんを探しに来てくれて、おじいさんを引き渡したり、ということもありましたね。
そこの避難所には1週間ぐらいいました。最初は教室が開放されていなかったのですが、いろいろな話し合いをしていく中で、教室も開放してくれという話になりました。そこの中学校は、1階は津波の影響が来ていたものですから、濡れないで上がってこれるように、みんなで廊下伝いに長机を並べて、ということもしました。
お年寄りと、子どもと、妊婦さんとかもいましたので、その人たちを優先的に教室に入れてあげて、若い男性とかは廊下で体育座りしながら寝たり、動物を飼っている方は階段や隅にいたりして日々を過ごしました。
その中で、子どもたちにすごく感心しました。自分の母校の子どもを褒めるわけではないんですけれども、中学校の生徒たちはトイレ掃除をしたり、自分たちから率先して動いていて。そういう姿を見て、大人たちも気づくことがあったと思います。
このときの自分はいろいろなことを考えすぎ、何かしていないと落ち着かないと思って、何かできることはないかという時に、JENの活動を見つけました。ここだったら、少しでも人の役に立ちながら「周りの事を考えれる」と思い、自分でできることが見つかるんじゃないかと、JENに入り活動するようになりました。
最初は、泥出しや炊き出しなどをしていて、4月後半あたりから仮設住宅への物資配付が始まり、その責任者として頑張らせてもらいまた。世界の各地からお寄せいただいた支援金を元に、仮設住宅約8,000世帯、石巻市全体の134団地に布団から歯ブラシなど60品目以上の日用生活物資を、入居前に配付させてもらいました。
アルバイトさんたちと一緒に物資の配布をし、その中でも一番よかったなと思ったのは、被災した方々が仕事として現場で働けること。動くことで気も紛れるし、自分たちの収入にもつながる。周りの状況も確認しながら、被災者が被災地のために動く、そして次へのステップを踏める。
物資の配布は、4月後半から8月いっぱいまでで、無事終了できました。事故もけがもなく、全世帯に配付することができ、そして一日も早く入居して頂けた事がすごくうれしかった。
7月頃から仮設物資の配布をしながら、同時に仮設住宅での生活状況のニーズ調査などで入っていくようになりました。そんな中で、今一緒にサードステージをやっている新井がJENに入ってきましたので、コミュニティ支援の方は新井に任せ、私は生業支援を担当と、活動のチーム分けができました。私は生業支援のリーダーとして動き始めました。
そこから生業支援では、石巻市、南三陸町で支援内容のニーズ調査をしました。その中でも、石巻市牡鹿半島の石巻側のほぼ全部の浜、30以上の浜があるのですが、それぞれのニーズを調査しながら、それぞれの浜に合った支援をしていきました。
牡鹿半島は石巻市の中でも端に位置していて、震災直後も、行政や消防、警察、ボランティアさんも含めて、手が入りにくい場所でした。津波の影響で、道もふさがれたりして、全然人の手が入っていなかったのです。被災した地域を回っていく中でも、「牡鹿半島は人の手が足りない」「ライフラインの復旧も市内の中心地に比べて遅れている」と聞いていました。
さらに、牡鹿半島の基幹産業でもある漁業では、津波により漁具・番屋・漁船が津波で流され、少子高齢化や若者など後継者不足も有り「漁業の再会が難しい」という言葉が多く聞かれました。
ということで、「牡鹿半島は全然人の手が入っていないから、牡鹿半島に入りましょう」ということが決まって、ボランティア支援や生業支援ということで入りました。
支援が始まって、いろいろ動いていく中で、牡鹿半島事業として大きく形として生まれたのが「浜友」や「浜こん」、「浜へ行こう!」などの活動です。「各浜で今、本当に必要なものを」という支援をさせていただいたのは大きかったです。
牡鹿半島には30を超える浜があって、それぞれの浜のニーズに合わせた取り組みをしてきたと話しましたが、具体的な例として、まず「浜友」の取り組みを紹介します。
( つ づ く )
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サードステージのウェブサイトに、いろいろな活動や写真が載っていますので、ぜひご覧下さい~。
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店名:八一八(読みハチイチハチ)
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