石巻で聞き書きを続けていらっしゃる千葉直美さんから届けていただいた「女性たちからのメッセージ」をお伝えします。震災のこと、被災地のこと、忘れずにいたいと思います。
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14)Nさん (40代) 2016年5月6日
いただいた支援は恩返ししたいです。次につながるので。家もあるし夫の仕事もあって生活が大丈夫だったので、いろんな支援を記録し恩返しするよう努めました。当時、生きていることにみんな精一杯で、いただきぱなっしでした。みんな余裕がなくてお返しができないので、自分にしかできないと思いました。英国ウイリアム王子が石巻に来た時も、できるだけのことをしました。
母の影響が大きいです。母はおいしいものを分けたり、自分が食べなくともあげたりしました。母の実家は旧家です。私の両親は商売をしていました。初売りは忙しいので、いつも実家に預けられていました。自分も売り子として手伝っていました。その店での経験から人間関係を学んだと思います。忙しい母が、きんぴらごぼうをたくさん作ってお客に持たせたりしたことを記憶しています。自分は小学3年生の時から料理をしていました。母は強運でいつも大吉をひく人でした。
2011年2月に両親は店を閉めました。母が末期がんで3.11は入院中で、余命わずかと言われ、弟たちが来ていました。家にいる父を心配していました。父は家の中で津波で犠牲になり、3月12日に確認しました。母にそう告げると、母は次の日の13日に亡くなりました。主治医がいろいろ説明してくれ、神の存在を意識しました。自衛隊が雪の中、父を探してくれたし缶詰の箱を運んでいる姿を見て、神はいると確信しました。停電で信号が機能していない当時、頑張った警察官や自衛隊に感謝です。
神が、人や出来事を前もって配置してくれている気がします。1人に5000万円をかけて育てた医者を、いくら負傷者がいても被害が大きい地域に行かせられないという大きな病院の医者の言葉にショックでした。でも衛生状態も悪いし、泥棒がいたりして治安が悪いので後で納得しました。水もなかったし。弟二人と夫がいてくれてよかったです。今も生きることに必死ですが、自分は恵まれています。友人は、下半身だけの夫のご遺体と対面しました。
両親そして自分という順番で死がきます。自分は子供がいなくて、子供が亡くなったわけじゃないんです。イギリスに半年、夫が単身で行っていた時、生活にはりがありませんでした。21年の夫婦生活ですが、このごろ、食器や押し入れの整理をして、夫がすぐわかるようにリストアップしています。
相手を思いやることは大切です。外からやって来る人達と縁ができました。自分の性格や人格を高めておくことですね。続けていくと縁が深まります。出来事の流れが水のように見えて、その流れを見きわめたいです。流れを作りたいです。必要な人が役割をもって現れ、道を作ってくれ、そして去って行くんです。
15) Oさん (フランス人、50代) 2016年5月21日
近所の人が助けてくれました。外国人の自分を、石巻の人達が、いろいろ助けてくれたのです。1人ではフランスに帰りたくなかった。一日一日を精一杯生きること。昨年、家を建てフランスの家族も遊びにきてくれて嬉しかった。
16) Pさん(20代) 2016年5月23日
清掃の仕事をしています。3.11に起きたことを考えてもしかたありません。浜辺の家は流されました。どうにかなります。くよくよしない楽天家なのです。小学校2年の息子を守るのは自分だけです。家は流されましたが、家族が無事でよかったです。良いところを探すよう心を切り替えています。震災前の仕事は解雇されましたが、その分、子供と過ごす時間が増えました。避難所から狭い仮設住宅へ移ったり、どこへ行っても順応しました。こんなもんだろうと。
今は、復興住宅に住み、こうして新しい仕事も見つかりよかったです。通勤時間も短いし。この仕事をなんとか維持したいです。あんまりがんばらないようにしています。めりはりをつけて暮らしています。生活にポイントをつけて。なるべく物事のいい所をみるようにしています。
両親は、海を見ながら生活したいと言うので、また浜辺に家を建てました。近所の古い知り合いがいる所がいいらしいです。私は息子との二人暮らしを大切にしています。息子は本を読むのが好きなんです。
17)Qさん(60代) 2016年6月1日
川岸で八百屋をしていました。津波がくるというので、店先の野菜や果物を中に入れて鍵を閉めて逃げました。うちの商品の中で、袋に入っていた野菜や果物が波で流されてきて、それを拾って食べたと近所の人が後で言っていました。3日目に店に入ってみると、ポンカンだけがぷくぷく浮いていたのを覚えています。小さい店なのに、津波が渦を巻いた跡が残っていました。
親戚の家に身を寄せようとしましたが、気をつかうと思ったので避難所へ行きました。半年をそこで過ごしました。店をやっていたせいか、人と話すのが好きで、みんなで掃除したり食事の用意をするのは苦になりませんでした。人によっては、誰かに見られているとか、共同生活が苦手だと言いますが、自分は近所の顔みしりが多かったせいか、まったく気になりませんでした。若いころは人見知りで人付き合いが苦手で、しゃべるのが好きじゃなかったです。
若いころ、裁縫や編み物を習って、手仕事が好きで家にいました。八百屋に嫁いで、だんだん人に慣れてきて、35年。嫁ぎ先では夫の両親と同居。八百屋の仕事は忙しく、袋に野菜や果物を詰めたり並べたりしました。手が荒れて、母が手を撫でてくれたのを思い出します。
猫がいるので早く避難所から出て仮設住宅に住もうと抽選に応募したけれど、気にいった仮設が見つかりませんでした。3年半、仮設にいました。新しく家を建てて仮設を出ていく人をみかけて「あぁ、出ていくんだなぁ」と思っていました。
公営住宅に住もうと思ったけれど、息子夫婦が一緒に家を建ててくれました。震災の一年前に義母が亡くなり、7回忌までには家を新築して、お世話になった人を呼んでお礼を言いたかったんです。震災前から、新築したいと願っていましたが、夫は金がないと言って賛成しませんでした。子供達3人と家族会議をして、息子の家族と一緒に住む家を建てることができて嬉しい。でも他の人がまだ仮設にいるので、あまり大きな声で喜べないんです。仮設から出る時、少しづつ物を運んで、引っ越しするときは黙って出てきました。元の土地の辺りには、新築した家が建ち始めているけれど、みんな家にこもっています。早く町内会ができて、近所の人たちと会いたい。
大きなスーパーは一人で清算をして、誰とも話さず買い物ができるけれど、この仮設商店街の八百屋のように、店の人と話をしながら買い物するのが好きなお客さんもいるんです。大型スーパーは便利だけれど、こういう小さな店が近所にあってもいいんじゃない?大きなスーパーだといろんなものが一か所で揃っていいけどね。肉屋とか魚屋とか近所にないから、こんな八百屋だけあっても客にとっては少し不便かもしれないけど。この仮設商店街は10月で終わり。私たちも、もう八百屋を閉めるつもり。前の場所で八百屋を再開しても、はたして以前のように近所の人が買いに来てくれる保証はないから。でも、私は楽天家なの。
18)Rさん (60代) 2016年6月1日
避難所で、自分の生活空間の仕切りに、私の手作りパッチワークをかけていたら、アメリカ人の支援者がそれに目を留め、知り合いになりました。津波は辛いことだけど、いろんな人に出会い交流が生まれました。
19)Sさん (60代) 2016年6月4日
地震が起きた時、家にいました。夫を待っていて外に出ていました。道路を走って来る男子高校生がいて、「逃げろ。」と叫んでいました。彼の後ろに黒い津波が見えました。その高校生の後を、一緒に逃げて、歩道橋に上がりました。歩道橋の下は渋滞の車。流される車。歩道橋の上で、「ポケットに手を入れて。」と若い男性が言ったので、素直に自分のポケットに手を入れました。
波がひけた時、歩道橋から降りようとしましたが、がれきでいっぱいで降りられません。男性たちが手伝ってくれて降りました。近くの運送会社に避難しました。親切な運転手さん達に助けてもらいました。運送会社のトラックに知らない人と入れてもらいました。ガソリンがあって、バンバン焚いてくれましたので温かかったです。夜中に木の上から「助けて。」の声が聞こえて、車の上に乗って助ける運転手達。
その運送会社の近くに井戸水があって、よかったです。魚を運んでいたトラックの積み荷や被災したスーパーから物が山際に流れ着き、それを拾ってドラム缶で炊き出しをしました。私は以前、下宿屋をやっていたので、料理を作るのは好きで、たくさんの食事を作るのに慣れていて平気でした。避難していた人たちの数十人分です。これまでの体験が生かされました。ご飯が足りない時はおかゆにしたり、リンゴは日持ちするジャムにしたり。知恵を使いました。サランラップを皿にしいて、なるべく洗わないように。
あの頃は甘いものがほしかったです。でもトラックの積み荷からもらった高価な魚(キチジ)なんかも食べたの。きれいな井戸水のために、これから山を大切にしたい。港近くの魚の冷凍庫で働いていた夫は、電気が止まってドアが開かず、外へ出れなくて帰ってこられないのかもしれない、もしかすると中で死んだかもと泣いていました。きっと荷物の下敷きが、凍死したかもしれないとあきらめていました。後でわかったのは、地震の後、すぐに山へ逃げたらしいです。数日後、夫は私を探しに来たそうです。しばらく食べていなかったのですが、知り合いにお握りをもらったそうです。
家に片づけに入って、立てていた家族写真の位置が違っていました。夫が来ていたんだとわかりました。10日後に仙台の娘の所へ。仙台は普通の生活でびっくり。パーキンソン病で、薬局は何件も回りました。今でも地震が怖い。津波が襲った家を解体し、家を新築しました。車も流されたので車も買いました。二人の娘を私立大へ入れたので貯蓄もなく、経済的に苦しい。2014年に孫が産まれたのですが、新しい命の力は大きい存在です。
子供が小さい時、町内会にはお世話になったから、2015年から町内会長を引き受けました。3.11で人生が大きく変わりました。
20)Tさん (20代) 2016年6月8日、14日
あの日は、中学3年生で卒業式の日でした。私は吹奏楽部でサックスをふいていましたので、定期演奏会が三日後にあるので、「また会えるよ。」ってみんなと別れました。家にいたら地震でした。普段は船に乗っている父が、たまたま家にいて「絶対に津波がくる、逃げるぞ。」と言ったので一緒に逃げました。ある建物の2階に逃げました。そこには20人ぐらいがいました。備蓄食料がありアルファ米があって分けてもらいました。怖くて窓から外が見れなかったのですが、水位が上がってきたのはわかりました。パニックの自分はずっと泣いていました。今も地震が怖い。ちょっと揺れると動悸がします。
小学6年の妹と連絡がとれず心配でした。学校だから大丈夫と信じようとしました。後で妹に聞くと、クラスメイトがいたので安心だったそうです。逆に、父と姉は泳げるから大丈夫だけど、母は泳げないので心配だったと言っていました。翌日、ビニール袋を足にまいて水の中を歩き、自宅へ行きました。自宅は一階を津波が襲い、2階での生活が始まりました。水に浸かっていないお菓子を食べたり、近所のかまぼこ屋さんがかまぼこを配ってくれました。
4日目に避難所に食べ物を取りに行くと、バナナやかまぼこをもらえました。避難所で、水をペットボトルにもらって帰ろうとしたら妹が、「水だけもらって帰るのか!」と年配の男性に罵声を浴びせられました。「学校でそう教えられたのか!避難所にいる人の気持ちがわかるのか!」と。しかしその帰り道、知らない女性に2個おにぎりをもらいほっとしました。いい人もいるんだと。助け合いばかり報道されますが、そればかりではないんですね。表向きはきれいことばかり。高校の合格発表がまだで、5月から高校に行きました。北海道から親戚が来てくれ、家の中をきれいにしてくれ助かりました。
自分はもともと引っ込みじあんで中学1年から高校1年までネガティブ思考でした。高校1年の時、ネガティブ思考を全面的に出しすぎ、暗く悲観的で、クラスで孤立。みんな一歩引いていました。しかし高校2年で「このままではいけない、変わろう。」と決心し、形から入って長い髪を切りました。部活だけでなく大学に入っていろんなことをしてみようと思いました。いろんな人に会って、いろんなことに参加してみようと。
幼稚園の時、外国の先生の英語の時間が楽しく、英語を使って仕事がしたいと思い始めました。外国の人と話をしたり、英語で日本文化を伝えたいです。最近、武道を始めました。社会人になったらできないこと、大学生だからできることを、この4年間でできるだけやりたいです。次はない気がします。
震災で犠牲になったアメリカ人女性のご両親が設立したテイラー・アンダーソン記念基金で、昨年、アメリカへ行くこともできました。被災について伝えることができました。アメリカの大学の講義に出席したり、アメリカの学生と話したり楽しかったです。むこうの学生が積極的に講義で発言していて、日本人があまり自己主張しないことがあらためてわかりました。それから、娘を亡くしたアンダーソン夫妻が、現地で明るく私たちを歓迎してくれたことに対して、その強さに感動し泣いてしまいそうでした。ありがたいです。
自分も、3.11があったから出会えたこと、知ったことがたくさんあります。当たり前のことが、そうじゃないことに気がつきました。普通のことが、ありがたく、周りの人や環境に感謝の気持ちです。風呂もなく、食料も電気も水もなかったのです。ずっと2階で生活していて、やっと1階でご飯が食べられた時、嬉しかったです。少しづつもどってくる生活。
今は市民楽団に入り、オーボエを担当しています。地元の大学に入った理由は、もともと地元志向があったからです。そして新しい学部に入り、前例がないので、自分たちで伝統が作れると思ったからです。良くも悪くも、一度決めたらぶれない性格です。心身ともに自分を優先させています。たくさんの人が傷を抱えているでしょうが、生きていればなんとかなります。辛くとも命があれば必ずなんとかなります。物事は、良くなるんです。上がるだけです。自分は恵まれた存在であることを実感します。今年もアメリカへ行くので、石巻の歴史や日本の文化を伝えてきたいです。
21)Uさん(50代) 2016年6月12日
震災前は、兄が経営していた花屋を、30年以上手伝っていました。私の実家の花屋です。津波で流されました。3.11の前には、もう花屋をやめようと思っていました。息子が結婚するので、孫の子守りをしたいのでこれを機にやめようかと考えていました。長面から30年以上、通っていました。
3.11の後、親の仕事をつなげたいと思うようになりました。兄は、もう別の仕事につきました。商売は大変だとわかっていましたけど、やってみようと思いました。夫は仕事をやめ、一緒に花屋を再開しました。夫はもともと花が好きで庭を作っていました。建てて15年たった家も庭もすべて流されました。ローンも残っていましたから、新しく土地をもとめて家を新築して、二重ローンです。
2015年に夫が少し体をこわし、今度は息子が仕事をやめ配達を手伝うようになりました。健康が一番ですね。3.11で亡くなった人に比べれば、自分は家族がみんな無事なのでましです。3.11の当日は、中学校の卒業式のために、檀上の花を活けていました。地震の後、先生たちの行動はすごかった。「集めろ!」と。すぐに生徒たちを集めたり、帰った子供達を探しに自転車で行ったり。それに比べて、ある小学校はでは、たくさんの子供たちが犠牲になりました。判断できない先生方や新しい先生達だったのでしょうか。
その日は学校で過ごしました。温かいおにぎりが届きました。その日に飯野川の婦人部から。次の日、10人ぐらいで自宅跡へ。息子と会えました。知り合いの母親が見つからないので探しにいく息子。私の姉が被害の少ない町にいて、そこにお世話になることができたのに、いっさい彼女のことを考えませんでした。なぜでしょう。今でも不思議です。
無事だった夫と会えました。新しい土地は、夫の姉二人が購入してくれました。長男である夫の姉たちは実家がなくなるのはつらいので早く土地をといって。買ってくれた姉たちにお返するために2011年7月に店をオープン。親を見てきて商売は大変だとわかっていたけれど、自分もやりたいと思ったのです。3.11を機にやらなくちゃ!と実家をつなげたい。なくなるのはつらい。
花を通じて人とつながりました。昔のお客さんが来てれくれて、やる気がでました。できるんだと自信がわきました。息子もやりたいと言ってくれ、息子ともいろいろ話し、若いアイデアをもらいます。インターネット販売とか。自分は若いころ、息子をおんぶして花を売っていました。息子に同じ苦労をさせたくないし、つらい思いをさせたので孫の世話をしたいし、退き際かもと考えていたんです。
しかし私にとって、花屋は人生そのもので、自信がありました。できるんじゃないかと。夢中で過ごしたこの5年間。家がなくなって悲しい一年。あれがあった、これがあったと思い出します。でも、下を向いていられない、支払いもあるし、病気になっていられないんです。2年目からは「ある物で」と気持ちを切り替えました。両親の商売を見てきて、売れない日もあり、子供のころから強く生きて、我慢しなければと教えられてきました。夫の父も早くなくなり長男として強く生きてきました。
自分は夫と、花が売れない時、お墓参りに行って両方の両親に頼むんです。すると助けてくれ、お客が来るんですよ。3.11の前は、あまり親のことを考えなかったのにね。あれから考え始めました。
流れにまかせて、前向きに、自分でできることをみつけるんです。女は強いです。前向きに生きていればいっぱい人は助けてくれます。前の店に来ていた顔見知りのお客さんがたくさんいて、まさかその人達が住んでいる場所に、この新しい店を開くなんて、そんなこととは知らずに。不思議です。まさかその土地に移って来るとは。導きでしょうか。始めは不安だったけれど、こうして、顔見知りになっていたお客さんの近所に住むことになり、つながっているんだと実感しました。そのお客さんたちが、みんなに声をかけて、店に来てくれるんですよ。後味の悪い人間関係や付き合いはしてこなかったので、よかったです。物事をいい方に、いい方にと考えるようにしています。家族の協力は本当にありがたいです。
22)Vさん(50代) 2016年6月19日
3.11の時、半島と島の間の海が割れて、海の底が見えたらしい。写真で見ました。両方に波が引いて一本の道が、半島と島の間にできたそうです。自然の力ってすごいですね。その後、二つの波がぶつかって、そして、あの津波。海底の断層が動いて地震がくるなんて、人間は防げない。どうすればいいでしょう。
誤解を招くかもしれませんが、自然で破壊されても、すぐに直せる簡単な構造の家を作ったり、物をもたない生活なんか、できないでしょうか。地球って、計り知れない力を持っています。人間は地球に、ちょっと乗っかって暮らしているだけ。
最近、熊が町の近くに出てくるね。山に食べ物がないから、人里に降りてくるんだよね。山に食料さえあれば降りてこないでしょ。人間がタケノコを採り尽くしてしまったりするのも影響あるかなぁ。人間が悪いのかも。島の鹿も、震災後、食料不足で大量に死んだよね。昔、島の鹿は、泳いで半島の方へ移ったらしい。島にいるサルは泳げないから、その鹿の背中に乗って来たんだって。おもしろいね。うそのような本当の話。あの辺りは潮の流れが速いから、鹿はちゃんと潮をよんだのかなぁ?
潮といえば、震災の後、沿岸部の港には、コンクリートの高い防波堤ができたり、高すぎる土盛りで、漁師さんたちは、魚を容易に船から陸へ上げられないらしい。潮の高い時に、港と船の高さが近くなって、やっと魚を陸へ上げられる。へんな話。年老いた漁師は、なかなか難しい。
地震で2メートル近く地盤沈下したけど、今、少しづつまた地盤が上がっているっていう。せっかく土盛りしても、こうして地球は動いているんだね。ちょっと怖い。そういえば、子供のころ、沿岸部の学校に通っていて高潮の時、海からしぶきが道路に吹き上げられて、その中を通学したのを思い出す。高潮の時は危ないから絶対に、その道は通らなかった。人間は自然の力には、かなわないと思う。