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エダヒロ・ライブラリー環境メールニュース

2016年12月11日

日本最大の原発集積地・柏崎で、未来に向けた新しい取り組みが始まっている!(前編)(2016.12.10)

エネルギー危機
新しいあり方へ
 

新規制基準に基づく安全審査に合格」する原発がつづき、「原則40年」を骨抜きにするかのように、高浜原発に続いて、美浜原発も20年の運転延長が認可されました。

一方、鹿児島県の川内原子力発電所の一時停止を公約に掲げて三反園訓知事が当選し(再稼働を容認しましたが)、新潟県でも原発慎重派の米山氏が圧勝するなど、原発をめぐっては「国レベル」と「地元レベル」との相反する動きが顕著になってきているように思います。

私は世界最大の原発集積地である柏崎市での3年間にわたる「明日の柏崎づくり事業」のお手伝いをさせてもらいましたが、この事業を通して、そして事業後のおつきあいを通して、柏崎で心強い動きが生まれ、展開しつつあることを知りました。

「国レベル」や「地元レベル」の政治的な動きとは異なる、地域の事業者たちの、未来を見据えた素敵な取り組みです。この「AKK」と呼ばれる新しい動きを紹介しましょう!

AKK代表を務める竹内一公さんは、「明日の柏崎づくり事業」実行委員会のメンバーのひとりでもあり、8人の委員の中では「原発賛成派」のひとりでした。

4年前に「明日の柏崎づくり事業」が始まった当初は、原発賛成派の中では、「原発以外の産業を"考えてみる"ことすら、『おまえは反原発か』と言われそうで、御法度」のような雰囲気でした。

しかし、原発の可否やその再稼働の有無を超えて、「柏崎の、柏崎による、柏崎のための事業」が進められようとしているのです。竹内さんとAKK副代表の長沢智信さんにお話をうかがいました。

○明るい柏崎計画(AKK)とは

――AKKとはどういうグループなのでしょうか?

AKKは、「明るい柏崎計画」の愛称です。地方創生がテーマとなるこの時代に、地方の抱える様々な問題に対して、地域の青年経済人として真っ向から挑戦しよう!という意思を持った有志が集まっています。

柏崎市を創生させるためのきっかけを、具体的な成果をもって創りだしたい。そうすれば、地方は若者にとって魅力ある重要な地域となり、雇用を増やすことにも必ずやつながると考えています。柏崎での取り組みを国内の他の地方にも展開していけたら、日本全体の地方創生にも資することができると考えています。

――AKKのメンバーは何人ぐらいで、どういう人たちなのですか?

中心になって動いているメンバーは約10人ですが、プロジェクトごとに、それに関連する市内の事業者がゆるやかにつながっています。メンバーは異業種の事業者から構成されているので、様々な資源や全く違った観点からのアイディアを出し合うことができます。それが具体的な成果に結びつける上で大事だと考えています。

ちなみに、竹内は、竹内電設という電気工事事業に携わる企業の経営者で、長沢は自動車部品・生産設備部品の製造に関わるテック長沢という企業を経営しています。メンバーの多くは30・40代の経営者です。

――どのようにして始まったのですか?

そもそもの話をすると、6年ほど前にさかのぼることになります。柏崎市内にある大手の企業の役員さんが、東京の方ですが、「柏崎に来たからには何か残していかなきゃならない。それは若者に対する教育だと思う。「僕が経験してきたことを伝えてきたいんだ」と、勉強会を始めてくれたのです。この企業は、僕らの会社の共通のお客さんでもあって、調達先の若い経営者やせがれたちを集めて勉強会をしよう、というものでした。

地元の事業者が6社ぐらい集まって、「うちの企業はこうやって頑張っている」「うちはこうなんだ」「すごいね。うちも参考にしたいな」というような勉強会を、月1回開いていました。自分たちにとっても、お客さんからそのようなことを提案されたことがなかったし、各社の財務諸表を見ながら勉強したりするので、何かを探っているのかなと最初は半信半疑でしたね。お客さんだから参加したほうがいいなと始まったのが本当のところです。

ところが、ある日、その役員の方が異動になっていなくなってしまいました。僕らは取り残された形になったのですが、「この集まりはいいよね。お互いに共有しながら、ほかの人のアイデアも聞きたいよね」と、その後も勉強会を続けたのです。もともとの勉強会は、ドラッカーとか書籍での勉強が中心でしたが、その後は、もっと実務的な勉強をしようと、お互いの工場見学をしながら、お互いそれぞれの会社の中まで、売上なども含めて全部さらけ出しながら勉強をしました。

――業種が違ったからできたのでしょうね?

ええ、建設業と卸業と、製造業でしたが、製造業の中でもまた分野が異なりました。もっとも、うっすらと利害関係があったりするものだから、緊張感もありましたね。それはそれでだいぶ刺激になりました。その後、勉強会自体は下火になりましたが、何かあるたびに年1回か2回集まるいい仲が続きました。

――そこから、どのようにAKKにつながっていったのですか?

この勉強会のグループから、竹内と株式会社イシザカの代表の石坂泰男さんが「明日の柏崎づくり事業」の実行委員会のメンバーになりました。こういうまちづくりの話や委員会は、行政でも青年会議所などでもよくあったのですが、問題意識を持っていました。

1つには、特に長年原発問題に関わってきた人たちから、推進派であれば「原発をないがしろにした新しい産業なんてもってのほかだ」、反対派であれば「絶対反対、廃炉にして遊園地にでもすれば」といった夢物語で、「原発があることによって何も進まない町なんだ」と、原発の推進派も反対派も、自分たちで状況を膠着させようとしているのではないかということ。

もう1つは、「話し合うだけで何になるのか?」という問題意識でした。語り合うだけではなく、具体的な行動に移す意思を持った若者たちが、具体的な行動を何かするための集団が必要なのではないかと思っていたのです。

「明日の柏崎づくり事業」の3年目の2014年9月に、「生き残りをかけて―柏崎の産業のこれから」という産業と地域経済を考えるシンポジウムを開催しましたよね。その後、より具体的な産業づくりについて考えていこうと、全4回の「明日の柏崎の産業を考える勉強会」につながっていったのですが、僕たちにとってもあのシンポジウムが大きなきっかけになりました。

――どのようにですか?

あのシンポジウムのパネルディスカッションでは、枝廣さんをファシリテーターに、前新潟県知事の平山征夫さん、会田洋・柏崎市長、柏崎商工会議所の西川正男会頭のほか、日揮株式会社取締役執行役員で前中小企業庁長官の鈴木正徳さん、株式会社リコー代表取締役会長執行役員の近藤史朗さんという、柏崎につながりのある企業人にも参加いただき、議論をしましたよね。

そのディスカション中に、鈴木さんが「柏崎に何かやりたい若者たちがいるなら、僕は一緒にやりたい。特にメタンハイドレートについて、日揮としてこの町でもやりたいと思っている。やる気のある人がいれば連絡をくれ」と発言されました。僕はシンポジウムが終わるとすぐに名刺交換をさせてもらって、次の日にメールをしました。

すると、鈴木さんも本気で応えてくれました。「すぐにでも勉強会を開く準備がある。竹内さんたち仲間で、同じくらいの年齢層がいい、人を集めてくれ」ということになりました。そこで、僕ら2人と石坂さんを核として、「それぞれの分野から2、3人ずつ集めれば10人集まるから、ここから何か始めよう」と、柏崎でもとんがった経営者もしくは次期経営者に声を掛けました。そうしたらすぐに集まってくれて。

――動きが速いですね! 

ええ、シンポジウムから4ヶ月後の2015年1月30日に、(株)日揮の鈴木さんと技術部長をお迎えして、メタンハイドレートの勉強会を行いました。「ぜひ参加させてくれ」という申し込みでいっぱいになりました。これが多分、今までの行政主導から、自分たちの主導に切り替えた瞬間だと思います。自分たちのほうがいろいろなイベントや取り組みをやるというのに対して、商工会議所や行政側が後から「では、われわれも参加します」という形になった、最初のタイミングです。

でも、その勉強会では、メタンハイドレートや資源は、スケール感も含め、僕らが安易に参入できる世界ではないと思い知りました。それはそれで大きな発見でしたね。鈴木さんには、「われわれにすぐに何かできるかと言うと難しそうだが、勉強は続けていきたい。この集まりは続けていきたいので、またご指導お願いします」とお願いして、「そうしよう」という話になりました。

――それでどうしたのですか?

何らかの成果がすぐに出ないと、勉強会をやっていても、この会自体の求心力がどんどんなくなっていくだろうと思いました。何か成果を出せるようなものをやらなきゃいけないということで、メンバー全員で集まってネタ探しをしました。「あんな課題がある」「あそこであんな課題があった」というのを具体的な問題提起をたくさんしたのです。その1つとして、柏崎は、地震もあったし、原発もあって、防災意識は高いだろうし、原発と絡んで、エネルギーについての問題意識も高いだろうという話をしていました。

その中で、たまたま、竹内電設が電気事業者なものだから、行政のほうからチラッと入ってきた話の中に、「平成32年までに、柏崎の全戸に配付されている防災無線、今はアナログだけど、これをデジタル方式に変える必要があるみたいだよ」という話がありました。

それをメンバーで話していたとき、当初は、「大手が納めるしかないよね。だったら大手が納めるものを、何とか柏崎で製造させてくれないかな。OEMとしてでもいいから」という話になりました。「できることだけでも働き掛けよう」と具体的なプロジェクトの第1弾として「防災無線」プロジェクトが立ち上げることにしました。

1月末に勉強会をしてから1ヶ月半後の2015年3月に、このプロジェクトを1つの核として(仮)明るい柏崎計画(AKK)の最初の全体会合を開催しました。

――最初はOEMでもいいから、という話だったのですね。

僕らは、経済効果を具体的に求めていかなければならないと考えていました。「何か具体的な、われわれの産業につながること。ひいては、僕ら個人個人の会社に返ってくるような仕事をつくらないといけない」と話していたのです。

話しているうちに、長沢が「OEMは違う」と言い出しました。「大手のOEMだったら、テック長沢1社でも引っ張ってこれる。それぞれの製造業の請負先が営業を頑張ればいいだけの話だ」。「柏崎は、柏崎でしかできないものを作るべきじゃないか」と。

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