今年も3月11日がやってきました。あの日から6年がたちました。みなさんは何を思いながら今日を過ごしていらっしゃるでしょうか。
石巻で聞き書きを続けていらっしゃる千葉直美さんから届けていただいた「女性たちからのメッセージ」をお伝えします。これからも忘れない・考え続けていくために。
~~~~~~~~~~~~~ここから引用~~~~~~~~~~~~~~~~~
5)6人(二人が60代、三人が70代、一人が80代)
津波の潮が上がった屋根に穴が開いていて、修理中です。オール電化は危険です。昔の生活の方がいいと思います。今は、便利すぎて、生きる知恵がありません。危険を体でおぼえる必要があるのではないでしょうか。
シュロの木は昔、田んぼの水や井戸水をきれいにして漉して使うために植えていたらしいです。3.11の時、旧式の電話がすぐつながりました。今の年寄りは、子供のころから自然の中で遊んで学び、サバイバル技術を習得していました。子供のころは、学校をさぼって、海で拾った魚を食べたり山で食べ物を見つけたりしました。近所には、怒るおじさんやおばさんもいました。
被災は、みんな同じだから誰にもすがれません。泥だしなど、ボランティアにはとてもお世話になりました。
自分の家は高台で無事だったので、家に避難してきた大勢の人の世話をしました。野菜は雪で汚れを落としました。卓上ボンベ、土鍋、反射式ストーブが役立ちました。風呂の水は、川から水を汲みました。
4日目に油揚げが届き、6日目に初めて外にでました。自宅の宝石を取りに戻った人が抱いたまま犠牲になったと聞きました。
近所の声がけや町内会の運動会をやったり、誰がどこに住んでいるかわかるよう心がけたり避難所の名簿を作っておく方がいいです。地域ごとにまとまって仮設に住む必要があります。コミュニティの何十年ものつながりを切ってはいけないと思います。仮設に入って、すぐ葬式という人もいました。ほどんど被災しなかった自分は、なんて幸せなのかと感じす反面、申し訳ない気分です。それで、ありったけの野菜を、ふるまいました。
高台の住宅は何も支援がありませんでした。二か月の赤ん坊のおむつやミルクを、地震から5分の間で、すばやく売ってくれた店があり感謝しています。
命が助かったことも、大変なことで、一生せおっていくんですね。まだご遺体が上がっていない、みつかっていない知人がいます。50歳で夫が病気になり、収入がなくなり、それから懸命に生きてきました。震災以降、前にやっていたボランティアの経験が役だちました。避難マップは家にいれば役立つけれど、どこにいるかわからない状況です。火おこしなどの防災訓練が必要だし、どこに逃げるか考え、自分で身を守ること。そして健康でいること。車椅子や寝たきりはだめ。寝たきりの子供を残して逃げるわけにはいかない。
ここまで津波はこないからと安心していました。家があるだけでいい。ひろってきた木で薪のストーブを作りました。保険は大切。
とにかく油断せず逃げること。 一人だと逃げるけれど、二人だと死ぬ割合が大きい。今は、ボランティアとの付き合いが生きがい。海外からも支援があって嬉しい。友達が大切。女性は家の守る役割があります。守るために生かされたと思います。
女性はきもが座っていて、冷静になれます。女性は、まず「ごはん食べた?」と聞きました。落ち着いてから行動します。知恵とがまん、しなくちゃと思ったり、頼られることで、生きることができました。一人では生きられません。寝たきりでも夫がいた方がいい。台所や料理が大切で、食べることが一番重要です。声掛けが嬉しい。
物事を、いい方にとって、前に行くしかありません。どうせだったら楽しく、心は豊かに、自分を大切にして、ごほうびをあげたりします。目から笑顔になって、気持を豊かにしたいです。
未亡人(一人以外)で、運が強く、生かされたと実感します。海が見れない防潮堤って、必要でしょうか。体験談を吐き出すことで楽になります。海がある石巻は海はなくせない。
ちぎり絵、洋裁、料理、友達づきあい、生け花、孫(三歳)との会話、ちりめん細工、カラオケなどが、生きがい。健康だけでいい。子供達に迷惑をかけないようにしたいです。スケジュールいっぱいで、考えている暇がありません。老後のお金をためなくてはいけません。
昔は船が入ってきた堀があって。水路がめぐっていた石巻です。オリンピックって必要? 材料や労働者が石巻に必要で、人件費が高くなり、高騰する資材。復興に回してほしい。 オリンピックに反対。計画性のない、いきあたりばったり石巻の街づくりで、無駄なお金を使う復興です。盛り土や防潮堤で、海が見えません。人が住まないのに。
6)Kさん、70歳代 2016年9月7日
3.11の日は、足が悪くて入院していました。津波が建物や車を流していくのを見ていました。日本沈没というのはこういうことかと思っていました。自分の家や店(菓子店)も壊されて流されていくのを見ていました。
夫は義理の母と、近くの公民館へ避難しました。車で逃げようとしましたが、車の上に瓦が落ちてきて、運転できる状況ではなかったそうです。歩いて避難しました。夫はもどって、店の片付けをしようとしましたが、津波がくると感じ、すぐ逃げて無事でした。もし一分でも遅かったら危なかったでしょう。
その後、病院には食料が備蓄されていなかったので、私も避難所でしばらく暮らしました。そこで日本中、世界中の支援者やボランティアに会いました。その人達は、熱心に話を聞いてくださいました。特に日本語のわからない外国の方々が、わかろうとして耳を傾けていました。その気持ちに助けられました。
夫は、津波の次の日に破壊された店の跡地に戻り、「ここにまた店を開く」という看板を立て、一人でがれきやヘドロの処理をしていました。海の底の、真っ黒いヘドロです。自衛隊がまず手伝ってくれて、それからボランティアの方が来て手伝ってくれました。若い人達の行動力には驚きました。私が若いころはボランティアなんて頭にまったくありませんでした。
私はこうして、震災の体験を話すのが好きなんです。震災の次の日から、しゃべっていました。誰かを亡くした人は、こうしてしゃべらないでしょうね。私は話すことで、気持が落ち着くんです。2015年の春に、店を再開しました。ボランティアで遠方から来ていた男性が、たまたまお菓子屋で、もう店をやめようかと思っていた人でした。その人に会ったことで、私たちは再開できました。
というのも、その男性の店にあった、お菓子を製造する機械を、譲り受けたからです。その人が、自分の店で使っていた機械や道具を、わざわざ車で運んできて、設置してくれたのです。私たちにとっては、使い慣れていない機械だったので、最初はちょっと戸惑いました。
この店は140年の歴史があります。店の後ろに蔵があり、その上の方の棚にあったお菓子のガラスケースが助かって、こうして今、使っています。それから、その蔵には、昔の冠婚葬祭の時の朱塗りのお膳もあり、今こうしてお菓子を並べる陳列台として使っています。
命を守ることが本当に大切です。命がなかったら、何もできません。このあたりは、ほとんどの建物が津波で流されました。破壊されたものの、輪郭をとどめていた、この店に、ボランティアが道を聞きに来るんです。店の中で私たちが片付けをしていると入ってきて「あぁ、ここはお菓子屋さんなんですね」と言って笑顔になりましたよ。船や車がひっくりかえって、ごちゃごちゃの道でしたけど、道を聞かれたんです。
7)Sさん、50歳代 2016年9月8日
3.11の午前は、岸壁で種牡蠣の作業をしていました。夫は万石浦に行っていました。私は仕事の後、午後に石巻市内の実家に娘と一緒にお米をいただきに行きました。米がきれていて、その晩食べるコメがなかったので。
実家ですごい揺れを感じました。実家は地盤が固いので大丈夫でした。大津波のサイレンが聞こえていました。それから2か月間、実家でお世話になりました。地震の後は、水道が止まることを知っていたので、20分ぐらい水をため始めました。浜の人は津波がくると高台の寺に避難することになっていました。
夜、火のついた船や車を見ました。3日目に夫が軽トラで迎えに来ました。情報がないので不安で心配でした。知らない人が車のエンジンをかけっぱなしにして、携帯の充電をさせてくれました。ガソリンもないのに。3時間列に待って充電をさせてもらいました。
自宅は2階の天井まで水がきました。浜に戻り、作業場や集会所がほしいと思っていて、支援団体が、コンテナの建物を提供してくれました。私はかねてから、新鮮な魚をどうにかして加工商品にしたいと願っていました。あなごの真空パックとか。
生き残った牡蠣をどうにか生かしたいと思い、無料でボランティアに食べさせたいと思い、復興感謝祭を2012年に開催。無料でふるまったのですが、たくさんの人達が、こっそりお金を置いていってくれました。それから牡蠣小屋テントを毎週末に開きました。
養殖が壊滅したので、しばらく仕事もなく、いろいろアイデアが浮かびました。牡蠣むき場が最初に完成し、焼き牡蠣、牡蠣そば、牡蠣グラタンとかを提供する食堂を開きました。遠方の人がおいしいと感動してくれました。仮の店舗で、店をだしていたらタレントの人が来て、グラタンの作り方ををおしえてくれました。
3.11前から、4つの浜から女性4人が一年に一度集まってガールズトークをしていて、それが楽しみでした。今の食堂は、1人ではできず、4人だったからできたのでしょう。牡蠣の燻製、炊き込みご飯、佃煮も作っています。大きい旅行会社のツアー客のために、弁当作りもしています。その弁当に、ちょっとつけた牡蠣の佃煮がおいしいと言われ、この食堂がツアーのランチの場所に選ばれました。
100人の応募で40人が選ばれるツアーらしいですよ。牡蠣の食べ放題とかのランチをしたこともあります。「浜のかあちゃんの津佃煮」として、その旅行会社がラベル、ビン、コスト計算、ホームページなど手伝ってくれました。
現在も、バスでボランティアが来て、おいしい弁当とおみやげを買ってくれます。秋サケ、いくら、サバごはん、あら汁、ホタテごはん、ホタテを二つのせたどんぶり、アジのつみれ汁など、ああでもないこうでもないと工夫しながら話します。季節の魚をいかし、 地元のおいしいものを「作ったらいいっちゃ」という一言が始まりです。4人の各自の長所をいかしつつ。
私の母は、洋裁ができて縫製工場に勤めていました。父は島の出身です。子供のころ、ウニをバケツいっぱい食べていました。浜の夫と結婚後、小さい地区なので幼稚園や小学校で役員が回ってきて、会報作りとか企画とか、文化部みたいなもので経験を積みました。障碍者との交流企画をして、感動しました。
先は考えません。目の前のことを一生懸命やるだけです。一人ではできませんから、仲良く楽しく友達とやります。みんなで話しているとアイデアが浮かびますよ。うっぷんを話したりね。新築8年目で被災。家をきれいにしてから解体するよう掃除していたらボランティアが手伝ってくれて、修復することになりました。特にアメリカの団体が、柱をうまく修復してくれました。世界からの支援はありがたく、道から玄関までの通路を韓国人が作ってくれ、テレビドラマで覚えた韓国語をつかって「カムサミダ」。
すべて心がけしだいです。いい方向に、何があってもいい方へいくのかなぁ。じっくり考えず、思ったらやってしまいます。かあちゃんが元気だと浜が元気になります。漁業は毎年収穫量が違って、去年が大漁でも今年は不漁の時があるから、気持ちが強いのかもしれません。
(完)