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エダヒロ・ライブラリー環境メールニュース

2018年04月19日

女性達からのメッセージ~東日本大震災の被災地宮城県石巻市から、その12 (2018.04.19)

大切なこと
 

東日本大震災から7年以上がたちました。久しぶりになりますが、石巻で聞き書きを続けていらっしゃる千葉直美さんが届けてくださった「女性たちからのメッセージ」をお伝えします。月日が経っても、大事なことを忘れずに、少なくとも時々思い出す時間をとりたいと思います。

~~~~~~~~~~~~~ここから引用~~~~~~~~~~~~~~~~

5)コミュニティカフェの女性達 8名 60代~80代 
2017年3月16日*あるご夫婦が2014年から自宅を開放し、ご近所の皆様とおしゃべりするコミュニティカフェにて8名の女性達からお話しを聞きました。

・家族を亡くした人に比べれば、自分はまだ家があるから、ましです。家が全壊だけれど、なんとなく震災を忘れていくような気がします。当時はとにかく、もくもくと坂を上ったり下がったり歩きまわり、よく体力があったなぁと振り返ります。30キロの米を持ったし。6年がたって、こうして年をとっていくのだなぁと実感しています。

・テレビの震災関連の番組を見たいけれど、見れない。3.11以前は、つきあいがなかったけれど、今はこうして近所づきあいをしていて、ありがたいです。程よいつきあいがいいです。家の床の木目に入った津波の泥や塩が、なかなかとれません。昔は、この辺は腰までの田んぼがあり、セリがよく取れました。堀もありましたね。

・情報のあるなしが決めてです。近くの店でおにぎりを配っているとの情報はありがたかったです。病人や高齢者を、列の前にどうぞと譲ってくれた人達がいました。3時間並んでもらったものはヘルメット一つだけのこともありました。地区によっては、物資がたくさんあって、地域の差を感じました。地区長しだいです。地区長には、見回りをよくしてほしい。

・3.11当時、支援の品物で貰って困ったものは、毛玉のついたセーター、古い靴、かびくさい服、ぼろぼろのもので、なんでもいいだろと送ってきたものがありました。人にあげる時は自分が入らないものはあげちゃだめ。良かれと思っても迷惑なこともあるので相手の立場も考えないと。海外からのボランティアにも助けられました。出会いの不思議。  

・年寄りは知恵があるので大切にしてほしい。声がけを普段からしているといいです。高齢者は若い人からの声がけ、特に子供からの挨拶が嬉しいものです。年寄りと子供がよくお互いになじんで顔みしりだといいです。

6)F.T  80代 (美容院経営)    2017年4月23日、4月26日

3.11当時、店にはお客様が一人いました。市役所の広報車が、「津波が来る」と回っていました。お客様は「大丈夫」と言いますが、「大丈夫じゃない!」と言って無理やり、たまたま近くにいた電気屋さんと一緒に裏の神社への階段を上りました。

タオルと靴下だけをかついで、階段の途中であきらめるというお客様を引っ張り「もう少しだ」と声をかけながら。神社で「神様、助けて!」とお客様は叫んでいました。このお客様はいつもは来ない日なのに、どうして今日来たのだろうと不思議でした。山の上の小学校で、知り合いのタクシーに、その人を乗せて帰らせました。

小学校で、近所の豆腐屋さんから豆腐の支給がありました。2晩、そこで過ごしました。着のみ着のままで寒かったです。3日目に息子が迎えに来たので、仙台に行きました。仙台も電気がなく大変でした。

しばらくして石巻に戻り、姉が5か月同居しました。支援物資や近所の井戸水に助けられ、助け合いにも感謝です。一か月後には、お客様たちが早く店を開けてというので開けました。みんな髪を洗ってほしかったのです。家族を亡くした人の話を聞いてたくさん泣いてばかりいました。例えば、逃げようと言ったのに津波はここまで来ないからと逃げなかった両親を亡くした女性とか。

自分が美容師になったのは母の勧めです。ほんとに感謝しています。妻を亡くした父と、母は結婚し、女が5人、男が3人の子供を全部で8人授かりました。父は60歳で亡くなり母は50歳で亡くなりました。母の墓へ行くたび「母ちゃんありがとう、もっと長生きしてくれればパーマをかけてあげられたのに」と言います。今は息子と二人暮らし。3.11後、一人暮らしだと危ないからと、息子が仕事を辞めてきました。

仕事が自分の支えです。客商売が好きです。花嫁の髪を結ったり着付けもします。子供のころ父が魚市場に務めていて、父が干した魚を自転車で売りに行って全部売ったことがあります。学校を出てから、仙台の美容室に務めましたが合わずに、石巻で別の店で世話になりました。自分の店を持って50年です。

3.11後、美容室をやめようとは思いませんでした。お客様が、辞められたら困ると言うのですから。いい客ばかりです。3.11後、知らないお客様も来るようになりました。美容師として施設や病院にも出張営業しています。

私は生かされたと思います。そして今は、仕事に生かされています。相手があってこそ自分が支えられ、一人では何もできず、一人では生きられません。人との関係が大切ですから、優しくし助けたい気持ちがあります。すべて勉強で、勉強は一生終わりません。いつでも目を養っていたいです。20年前に夫が死去。自分も2回大きな手術をしたり胃も全摘しました。

7)松並公園での立ち話 70代          2017年5月20日

この公園には、あっちにもこっちにも桜やヤナギがありましたが、津波で枯れてしまいました。子供達をよく遊ばせていた公園。今も、小さな子供連れが来ます。市内には子供の遊び場が少ないので、自分の妹の孫達も遠くから遊びに来ます。ここは凄く風が強いので、樹木が育ちにくいけれど、桜がもっとありました。今は残った桜が咲くのが楽しみ。

3.11後、仙台の息子の所に身を寄せました。震災の年の10月に仮設に入ったけれど、ここから遠かったし、みんなあちこちから寄り集まって、親しい関係になりにくかったです。一線を引いた関係で、ここまでっていうように。ある程度まで親しくなるけれど、仮設を出ればそれで終わり。3年半の仮設住宅は長かったです。やっと元の場所に家を再建して戻って来れました。息子の家にしばらくいたので、その時は支援物資はもらえませんでした。

仮設では、衣類をもらって助かりました。たくさんのボランティアにお世話になりました。おいしいコーヒ-を入れてもらって、初めて砂糖なしでブラックで飲めるようになり、コーヒーが好きになりました。本当においしいコーヒーでした。茶道のお抹茶をたててもらって味わったり、花のリースを作ったり、髪を切ってもらったのがよかったです。ボランティアには感謝。

今は、もう物はいらない。ここは年寄りが多い地区なので、集まってお茶飲みつつおしゃべりするのが楽しみです。でも集会所は遠い。前の半分も住民は戻ってきていなくて町内会もあまり活発じゃありません。男性達は生活再建で余裕がなく、女性の会長、副会長が頑張っています。

前は公園の草むしりも、市に頼らず町内会の自分達でやったけれど、今は人も少ないし年寄りばかり。本当に風が強いの、ここは。(何度も繰り返す)。この公園が早く元にもどって、近隣からもっと子供達が遊びにくればいいと思う。桜が咲くのが楽しみ(何度も繰り返す)。70代以上の人は、もう新しい家を建てられませんね。

3.11では、歩道橋や高い所に逃げた人が助かりました。渋滞がすごくて、たくさんの人が車ごと流されましたが、自分は徒歩で逃げたから助かりました。

8)C.U (割烹おかみ) 70代            2017年6月7日

1914年創業の割烹で、103年になります。

とにかく、あの日は、地震の後すぐに山へ逃げました。女川出身なのでこういう地震の時は津波がくると幼いころから教えられていたのです。

店の暖簾をおろしてはだめだと、義母から何度も言われ続けていたので、震災後に店をやめようとはまったく思いませんでした。電気が通じるようになって、すぐに東京の工場に電話し、釜飯を作る機械を特注しました。この店は釜飯が評判です。他の被災した店からも注文が殺到して自分の分をすぐに作ってもらえないだろうから、親戚の安否確認よりも釜飯の機械を注文しました。

家も仕事も、写真もすべて失くした人達が、この店が立ち上がることで希望を見出したと聞きました。続けてくださいと言われました。何も残っていない人達にとって、大切な思い出はこの店での食事、特に釜飯だったのです。

お客様は親から子、子から孫へと何世代にもわたって食べに来ていました。子供と一緒に来ていた人が、次は孫と一緒に来ていました。家族と釜飯を食べた思い出が支えだったのです。使っているお米は、農家で特別に作ってもらうお米なんですよ。

この店の再建が復興のシンボルになるような、コミュニティのシンボルのような、そんな存在になりたかったです。自分で立ち上がらなければ、だめです。誰かが助けてくれると思ってはいけません。座って「助けて」と言うばかりでは誰も助けてくれません。まず自分で立ち上がり、努力すること、そうすれば誰かが見つけて支援してくれます。

小さな復興と小さな希望が、大きな復興と大きな希望へ、つながると思います。

9)R.P 40代 (中華料理店経営)        2017年6月7日

3.11の前に、飲食店をやったことはなかったけれど、街に一軒だけ食堂が開いた時、あまりにもさみしいので自分も店を開いて街を明るくしたかったです。思い切って、中華のお店を開きました。夫が料理して、私が接客をする小さな店です。

10)S・S 他3名 (60代から70代)     2017年6月24日

*この4人は近所に住んでいますが、3.11の前はそれほど親しくありませんでした。3.11後にお互いの家でお茶を飲む間柄になりました。

A:大きな地震があったら、とにかく逃げること。他の人の家のことを考えていてはだめ。私はサイレンは聞こえました。でも聞こえない人もいたのは確かです。私は無我夢中で何も持たずに逃げました。徒歩で逃げたから助かったのです。車はだめ。車はすぐに渋滞になって、車ごと流されて亡くなった人がたくさんいます。

B:津波が来るとは思いませんでした。自分の家はそんなに揺れなかったので、何も落ちませんでした。でも後から何度も何度も津波が来たのです。

誰かと喧嘩しても時間がたつと気持ちがほぐれます。ゴムのように柔らかい気持ちを持って、負けないことです。無視されて何回もツンとされても、こちらから挨拶をし続けると、いつか返事が返ってきます。

父が32歳で戦死して、私は4歳で母子家庭となりました。6歳の姉と2歳の弟がいました。貧しくて絵の具が買えず、図画の授業がある日は、お腹が痛いと言って早退しました。同級生が、家まで一緒に歩いてくれたんですが、逆に困りました。嘘がばれるから。下着もなくて、身体検査の時は先生が気を使ってくれて、目立たないようにしてくれました。

暗く考えず、図太く前向きに生きています。怖いものがありません。あの日3.11の夜は星がきれいでした。空の、ある一面は星、でも他の一面は真っ暗でした。

C:映画かマンガのように、松の木も家も流れて行ったのを眺めていました。屋根の上に二人の男性が乗って、流されていきました。女性の遺体も見ました。近くの老人は、車の中でシートベルトのまま亡くなっていました。膝ぐらいの波で勢いが強く、引っ張られ歩けませんでした。

自宅のアパートの二階に、見知らぬ女性と3か月の赤ちゃんが避難してきました。とにかく助けなくちゃと思いました。水がみるみる上がってきたので、ベットを重ねて天井まで高くしました。これ以上、水がきたら、この親子と一緒に死のうと思いました。雪が降ってきました。孫が学校から帰ってきて、息子と車で逃げたのでよかったです。別の子も学校から帰宅したが、亡くなりました。

C:ゴーという津波の音を覚えています。それから10秒もかからず津波。飲み水がなく、流れてきた白菜をかじって水分をとりました。

D:いろんな知識が大切。避難所で糖尿病の高齢者に対応しました。今、ここにいる人を助けることです。どこで被災するかわかりません。運があるかどうか、無心で決断します。私はでしゃばりでお人よしなんです。自分から、してやりたい、進んでやりたいという気持ちがありました。気が利くと子供のころから言われていました。誰かがしなくちゃと思って避難所で動きました。感謝されると嬉しい。避難所でもいじめがありました。

常日頃から近所同士の、声がけやお茶飲みが大切。丈夫な体が大切ですね。その場で相手に強いことは言わないようにしています。6か所の避難所に回され、その年の10月10日までいました。避難所の方がよかったという人もいる。避難所では、その人の本性がばれますね。

親戚の家に避難した人がいますが、お互いに3日が限度ではないかと思います。ほとんどの人が、途中で出てきます。世の中には、いろんな人がいるんですねぇ。話し合いをすると気持が和らぎます。つきあいが長くて相談しあったり、安心してしゃべれる友達が大切です。家にこもっていないで、自分からから出て行って、自分の方から「生きている」と言う方がいいですよ。戦後は貧しく、親にこれを買ってくれと言わない、がまん強い子供時代を過ごしました。健康が一番ですね。

~~~~~~~~~~~~~引用ここまで~~~~~~~~~~~~~~~

日本では、1924年の関東大震災以来、100人以上の犠牲者を出している地震が、15回起こっています。9年に1回ぐらい起きているという計算になります。

被災された方々の体験からの教訓をしっかり学んで生かしていくこと、被災地と被災された方々のことを忘れないこと。慌ただしい毎日が飛び去っていく中でも、大事なことは忘れずにいたいと自分に言い聞かせています。

 

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