4月の終わりから2週間弱、石巻で被災地のお手伝いをしてきました。海沿いの壊滅的な被害に大きなショックを受け、「自然との共生」についてつくづくと考えさせられました。
日本は地震国です。地震に伴う大津波も、何度も経験しています。石巻にも頑丈な護岸堤防がありました。みな安全だと信じていました。しかし、今回の津波はその堤防を超え、市内をめちゃくちゃに破壊したのです。
企業のCSRレポートでも町づくりの議論でもよく「自然との共生」という言葉を聞きますが、これまで私たちが使ってきた「自然との共生」とは、まるで箱庭か何かのように、自分たちに襲いかかってくることのない、自分たちが愛でる対象としての自然を近くに配することを言ってきたのではないか、と思いました。
「津波が来ても壊れない堤防を造る」という人間の工学で自然の脅威を抑え込むというやり方が今回うまくいかなかった一方で、宮古市の姉吉地区にいた住民は全員が無事でした。
ここは1896年の明治三陸大津波、1933年の昭和三陸津波で集落がほぼ全滅する被害を受けました。海岸から約500メートルの山道に、「高き住居は児孫の和楽 想え惨禍の大津浪」と始まる石碑が建っています。「津波はここまで来た」「ここより下に家を建てるな」と刻まれた警告を、集落の人々は守り続けてきました。集落全戸が石碑よりも内陸側に建てられていたため、今回の津波で人命にも家屋にも被害はなかったそうです。
老荘思想は、天(宇宙)の大もとのあり方に自分のあり方を合わせていくのがいちばんスムーズな生き方だという考え方ですが、それを代表する概念が「無為自然」です。
「無為」の逆は「人為」=人が何かをしてコントロールしようとすること。工学的な技術で津波を抑えようとすることは人為の一例でしょう。
私たち人間は、自然を抑え込むべき対象とみるべきなのでしょうか。それともそのゆらぎに身を任せるべきなのでしょうか? 今回の震災は、私たち人間と自然との関係性を再考させる大きな機会になりました。
被災地では復興に向けた話し合いが始まっています。これからの町づくりでは、短期的な効率だけではなく、中長期的なしなやかな強さ(レジリアンス)を高めることも重視してほしいと願います。
そのとき、「自然との共生」をどのように考えるのかが大きな鍵を握ることでしょう。短期的な経済効率の最大化だけではなく、長期的な自然のゆらぎも受容できるような「一見非効率的だが長期的にはしなやかに強い」町づくりができるのではないでしょうか。
そしてエネルギー業界にとっての「レジリアンス」とは何なのか? 今後の大きな課題になることは間違いありません。